跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/10/01

図書館に行き、ジュンパ・ラヒリという作家の『べつの言葉で』というエッセイ集を借りる。この作家は『停電の夜に』という短編集が日本でも有名だが、私は不勉強にして読んだことがなかった。このエッセイ集は彼女が英語ではなくイタリア語を使って創作を始めるようになった、その修練の記録を綴ったものだ。私は英語を学んでいるところなのだけれど、学ぶ志を持つものとして彼女の姿勢から学ばされるところは多い。私も彼女を見習わなければならないと思い、また彼女とは違う感覚を持っていることも自覚された。

なぜイタリア語を使って書くのか? ローマに憧れを持つからなのか、それともウンベルト・サバやウンガレッティといった書き手の書くものを尊敬するからなのか。それははっきりとした形では見えてこない。だが、イタリア語への愛は伝わってくる。私は彼女ほど英語を愛しているだろうか、と考える。そして、愛するが故に彼女は謙虚である。イタリア語を完全にマスターすることはできないと悟り、その不完全さを受け容れる。永遠に達成されることのない、シジフォス的な学びの過程こそが彼女の活動の謂なのかもしれない。

私は英語を使っているわけだけれど、流暢に喋ることや書くことができるとも思っていない。日本語でだって私は喋ったり書いたりすることが苦手だ。ただ、頭を使ってこれから放とうとする言葉をコントロールするのではなく、身体で語らせること。自分の中から自然に出てくる言葉をそのまま放つこと。それでよしと思っている。その「身体の」神秘がそのまま言葉にまつわる神秘でもあると思う。言葉と向き合うことは、そのまま自分と向き合うこと。自分の中の神秘を探ることでもあると思う。ジュンパ・ラヒリにしてもそうなのではないか。

ジュンパ・ラヒリの姿勢は、私は多和田葉子の姿勢と共通するものを感じた。多和田葉子もまた異なる2つの言葉の中で引き裂かれ、しかしどちらにも就くことのない作家だと思ったからだ。ジュンパ・ラヒリがこれからイタリア語だけを使って書き続けるのか、それとも多和田葉子のように書き分けるつもりなのか知らない。これ以上のことはジュンパ・ラヒリの創作を読んでから語るべきことなのだろう。私も英語で創作をしたりすることもあるが、この真摯さ、真剣さは到底私には真似できない境地だなと思わされた。