犬は吠えるがキャラバンは進む

The Dogs Bark, But The Caravan Moves On.

私は流行、あなたは世間1

今日、ぼくは村井章子という翻訳家が訳したアランの『幸福論』を買いました。そして読み始めたのですが、ぼくは原著を読んでいません。なのでこの訳が正確なのかどうか評価できません。ですが、読みやすい文章に惹かれてずっと読み進めてしまいました。アランが書いていることはここ最近ぼくが考えていたことと似ているので、偶然の一致ではありますがこれをこそ「運命的な出会い」と呼びたくなっています。アランは幸せについて平明に語りますが、そのバックグラウンドにある粘り強い考察とぼくたちを見つめるオプティミズムも見逃してはならないと思います。この本、ずっと読み続けたいと思います。一読しただけではわからないところもあると思うのです。これから楽しみに読んでいきます。

アランは次のように書きます。

幸福は、探しはじめたとたんに見つけられないことが決まってしまう。これは、ふしぎでも何でもない。なぜなら、幸福はショーウィンドウの中の品物のように、選んで、買って、持ち帰れるようなものではないからだ。品物なら、しっかり選びさえすれば、陳列されているときも家に帰ってみても、青は青であり赤は赤である。これに対して幸福は、しっかりつかんでいるときしか幸福ではない。自分の外に幸福を求めるとき、幸福という形をしたものはけっして見つかるまい。

こと幸福に関する限り、こういうものだろうと推論したり予見したりすることは不可能である。いま幸福を手にしていること、それがすべてだ。よく考えてみてほしい。将来幸福だろうと思うなら、いますでに幸福なのである。期待することは、すなわち、幸福であることなのだから。(p.552)

ぼくは子どもの頃、ぼく自身にとっての幸せとはなんなのかわかっていませんでした。というか、そんなことを深く考えなくても「お仕着せ」の幸せを自分の幸せと一致させていればよかったのです。つまり、世間一般が幸せと思うものを幸せと信じていればいい、と。ぼくが子どもの頃はまだバブルの余燼が残っていた時期だったので、日本の社会はエスカレーター式に出世して結婚して家庭を築いて……というモデルで物事を捉えようとしていました。ぼくも自分はいずれはどこかの企業に入って結婚して、マイホームを建てて子どもを育てて、そんな人生が待っているのだろうな、と思っていました。それこそが「幸せ」なのだろう、と……。

ぼくは大学は早稲田というところに入りました。関関同立も受けたのですが、兄が「東京は楽しいところだから」と薦めてくれたので記念受験のつもりで受けたのです。それで、受かってしまったので早稲田の学生として4年間勉強しました。人が聞けば羨ましい話かもしれません。ですが、ぼくはちっとも楽しくなんかなかったです。ただみんなが勉強しているからぼくも勉強して、みんながサークル活動をしているからぼくもして……と、主体性のカケラもない生活をしていたように思います。でも、考えてみればぼくは「兄が薦めたから」早稲田に入ったのです。その時点でぼくはなにか間違っていたのかなとも思います。酷でしょうか?

大学を出る時、ぼくは就職氷河期の現実にぶち当たりました。結果としてぼくは一社からも内定は得られませんでした。今ならぼくのような発達障害者は会社探しや広く就労支援に関して専門家/支援員が入りジョブマッチングを試みてもらえます。ですが、当時はそんなサービスはまだ一般的ではありませんでした。ヤケになったぼくは毎日憂さを晴らすべくビールを飲み始めました。これがアルコール依存症への入り口/呼び水となりました。その後40までぼくはアルコールに溺れる生活をします。今考えても、ぼくは不幸のどん底に居たと思います。ですがそう仕向けていたのは他の誰でもない、ぼく自身でした。これについてもまた書くことがあるかなと思います。

結局、ぼくは40になって酒を断ち断酒会というところと繋がります。そこで、平穏無事というか平々凡々としたシラフの人生の有難味、穏やかな生活の幸せを語る方々と出会います。そうしていると、ぼくも「早稲田に入ったからといって、そんなにシャカリキになって生きることもなかったのかもしれないな」と思うようになりました。別の言い方をすれば、早稲田は一流大学かもしれません。でも、ぼくはそんな大学に入ったことが幸せの入り口だとも思えなかった。そんなことより、ぼくはただ穏やかに本を読み自分なりにものを考えて、それをこうして書き綴る生活を穏便に送る方がよっぽど幸せかもしれないと思いました。

この、ぼくにとっての幸せを見つけられたということはぼくにとって嬉しいことです。無理をしなくていいからです。早稲田を出たという来歴も(チンケなものだと思いますが)、その後全然パッとしない人生を歩んで酒に溺れて死にかけたことも、すべてぼくにとっては今のこのぼくにたどり着くまでの必然だったのであると受け容れることができます。ニーチェ永遠回帰という概念が指し示す「この人生を、再び訪れうる『必然』として肯定せよ」という教えを、ぼくは「イエス」と受け容れることができます。今のぼくは決して偉い人間ではありません。ですが、それもこれも含めて正解なのだろうな、と思うのです。

アランは『幸福論』で他にも幸せについて様々なことを書いています。それだけではなく、ぼくたちが上機嫌で平穏に生きるためにはどうしたらいいか、極めてアクチュアルな文章で教えてくれています。これから、ぼくはアランの向こうを張って自分なりに見つけた幸せや自分なりの生きる流儀について書いていきたいと思います。ぼくは仕事をして、本を読んで、映画を観て、音楽を聴きます。そんな日々の繰り返しを経て、そんな平々凡々とした暮らしから得られたことを言葉にしたいと思います。