跳舞猫日録

Life goes on brah!

秋の日誌5

さて、中島義道はあるところで、ニーチェの「永遠回帰」という概念に触れながら次のように書きます。

ここで重要なことは、いかなる状況もそれ自体として善でも悪でもないということ。いかなる状況も、当人の考え方によって善にも悪にもなりうるということである。友人も恋人も去ってしまった。自分は今全身がひりひり痛いほど孤独である。家族も同僚もいる。しかし、自分はなんの人生の手応えもない空虚な生活を送っている。毎日がさらさら指の間からこぼれる砂のように味気なく過ぎてゆく。他人の中ではつい陽気にふるまってしまう。しかし、独りになると恐ろしいほど孤独なのだ。こう感じている人がいるなら、今の状態を百パーセント肯定しなさい。あなたの孤独は、あなた自身が選びとったものだということを認めなさい。(中島義道『孤独について』)

ぼくはこの箇所から、立川談志という人の「いいか、現実は正解なんだ」という言葉を思い出します。ぼくなりに解釈すると次のようになります。例えば、ぼくはアルファブロガーではありません。でも、これは「正解」なのです。なぜなら、ぼくの書くものに人に読まれるだけの魅力がないからです。もちろん、これを嘆くことは簡単です。世間はなぜ認めないのだろう、こんなに素晴らしいことを書いているのに……というように。かつての(酒に溺れていたぼくは)この現実を嘆き、否定していました。読まれるブロガーに対するヒガミや嫉妬で凝り固まっていた、とも思います。恥ずかしい話です。今は、ぼくは自分の書くものが認められないことを受け容れることができます。もちろん、読まれないより読まれた方が嬉しい。それを踏まえた上で「まあしょうがないな」と思います。

読まれる読まれないは時の運もあるでしょう。なので、話をわかりやすくするために引用に戻りましょう。中島義道は孤独について執拗に(悪く言えばしつこく)考察します。「自分はなんの人生の手応えもない空虚な生活を送っている。毎日がさらさら指の間からこぼれる砂のように味気なく過ぎてゆく」……これはまさに、今この文章を書いているぼく自身の実感としてあります。事実、ぼくは今日仕事が休みだったのですが、なにもすることがなかったので村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読み返しました。この読書は一文の得にもなりません(だから尊い、とも言えます)。「いいのかなあ、本ばかり読んでて」と自己嫌悪を感じました。ちなみに、海外のチャット相手からもぼくは「quite a bookworm!」とからかわれます。

孤独……あるいは、人生の手応え。そんなことを考えると、ぼくは小津安二郎のことを考え、またフィッシュマンズのことを考えます。フィッシュマンズの話はこれまでしてこなかったはずです。大学生の頃、ぼくは『エレキング』という音楽雑誌を購読していたのですがその中で尊敬するライターの三田格が熱狂的に推していたので、「あの辛口の三田さんが推すのならよっぽどなんだろう」と思って『空中キャンプ』を買いました。そして、聞きました。最初に聞いた時は「なんだ、こんなものか」と思いました。でも、最後まで聞き終えるとまた最初から聞きたくなりました。それをその日ずっと繰り返しました。毎日毎日、ぼくは『空中キャンプ』だけを聞く日々を送りました。

フィッシュマンズの、とりわけ『空中キャンプ』からぼくは孤独の大事さについて考えさせられます。そんなことを考えるのは、ぼくが本質的に孤独な人間だからなのでしょう。ぼくが発達障害者であることは前に書きました。だから、ぼくは心を開ける友だちを持たないまま十代を過ごしました。ずっと村上春樹ノルウェイの森』をバイブルにして、本と対話をしながら十代をくぐり抜けました。本こそは(あるいは、本だけは)ぼくがなにを話しかけても嗤わないで黙って聞いてくれた友だちだったのです……また話が脱線してしまいました。フィッシュマンズもまた孤独について歌い、そんな孤独な人々が出会うことで生まれるかけがえのない世界の素晴らしさを歌っていました。

歌詞から音楽を語るのはやりやすいので、それ故に危険が伴うのですがともあれやってみましょう。フィッシュマンズの歌詞は「みんなが夢中になって 暮らしていれば 別になんでもいいのさ」(「幸せ者」)と、世界を肯定するフレーズを備えています。「窓は明けておくんだよ いい声聞こえそうさ」(「ナイトクルージング」)、あるいは「そっと運命に出会い運命に笑う」(「すばらしくてNICE CHOICE」)といった歌詞がぼくは好きです。外の世界、ぼくたちが住む「公共圏」というところが「いい声聞こえそう」な、「運命」の場所であるというように歌っていると感じられるのです。深読みのしすぎでしょうか。ですが、ぼくはこの歌詞に随分励まされます。

ぼくはいつも、このブログで理屈っぽいことを書いています。ですが、ぼくがこれまで体得した経験から考えるに人生というものは本質的にもっとシンプルだと思います。難しいことをシンプルに語れる人をこそ本当の知性派と呼ぶのだと思うのです。なら、ぼくにとって小津安二郎フィッシュマンズの作品は本当の知性が生み出した作品であると感じられます。そういうことを言い出せば例えばブルーハーツだってブランキーだって知性派の音楽なのですが、また話が脱線するだけなのでやめておきます。孤独の話に戻ると、ぼくはかつて孤独こそ人生の本質だと信じていました。ひとりで居ることに耐えられるのが本当の強さで、その強さを持たない人がつるむのだ(小人閑居して不善を為す、というやつだ)と。

ですが、今のぼくは違う考え方を採ります。人間存在の本質は孤独だと思います。それは変わりません。でも、だったら私たちがこうして交流すること、ワイワイと楽しくやることが無価値なのかというとそんなことはないと思います。孤独を前提にして(つまり、生まれてきた時も死ぬ時も結局はひとりぼっちであることを自覚して)ぼくたちは出会い、語らいます。その時、ぼくたちは世界をほんの少しだけ豊かにします……と、こんな書き方しかできないのですがともあれぼくたちは人と出会うことで日々「公共圏」もしくは「社会」を築き、それを鍛えます。それはいずれ消える儚いものですが、しかしこの世界を少しだけ豊かにします。そうして、日々ぼくたちは世界を豊かにして、そして死んでいく。それが人生であり、この世の実相なのかもしれないな、とも思うのです。

「音楽はなんのために 鳴りひびきゃいいの/こんなにも静かな世界では/こころふるわす人たちに 手紙を待つあの人に/届けばいいのにね」(フィッシュマンズ「新しい人」)