跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/09/02

夢とはなんだろう、ということを考えている。最近読んだ十河進のコラムの影響かもしれない。これは恥ずべきことかなとも思うが、今の私にはさしあたって夢と呼べるものはない。かつては、作家になりたいとかブロガーとしてもっと名を成したいとかいう夢があった。そのために随分頑張った記憶がある。でも、結局なれなかった。それはそれでいいのだ。才能がなかったのだから。それに関しては見切りはついた。問題は「そして人生はつづく」ということだ。なにはともあれ生きなくてはならない。夢を諦めることを描いた映画『ラ・ラ・ランド』を観直すべきだろうか。あまり好きな映画ではないのだけれど……。

夢はないかもしれないけれど、私の場合こうして書きたいことを書くと他の人が喜んで読んでくれるという手応えはある(海外の友だちまでも!)。ということは、プロの作家として筆耕で食べていくことは遂にできなかったけれど、私の夢のコアである「自分の書き物で喜んでもらう」という部分は叶ったということだ。なら、それでいいのかもしれない、とも思う。悪く言えば諦めがついたということだ。だが、諦めることも大事ではないかと思う。諦めきれないで夢を追い求めもっと悲惨な状態になるよりは、諦めて堅実に生きる方が……いや、悲惨であっても夢がある生活と堅実に生きる夢のない生活、どっちが幸せかは本人にしかわからないのだけれど。

朝、5時ぐらいに起きる。そしてこの日記を書く。そして会社に行き仕事をする。昼1時くらいにイオンに行き弁当を買って食べる(今日はさんまが入った弁当だった)。そしてグループホームに帰ってきて、夜に時間があれば1本映画を観る。それだけの日々。隠居生活みたいだ。会社では偉いポジションに居るわけではないので責任も伴わないし、そんなにあくせく働いているわけでもない。日々は平和に過ぎていく……こんな生活をしているから夢がなくなるのかなあ、とも思う。でも、だったらどうしたらいいのかなんてことは私には全くわからないのだった。夢よりも、今を堅実に生きることの方が大事なのかもしれないと思う。そうすればなにか見つかるかもしれない……。

そんなことを考えてしまうのは、十河進のコラム以外では今日読んだ阿部昭『単純な生活』の影響もあるのかもしれない。『単純な生活』を読むのは2度目なのだけれど、味わい深い作品だと思った。今の私と同い年くらいの著者(つまり40代半ば)が、妻と息子と共に暮らし小説を書く日々をエッセイ風に綴った一編なのだけれど、ここにも堅実に生活を築き上げてその中で幸せを見出そうとしている著者の成熟/円熟を感じる。確かに世の中には太宰や尾崎放哉のようにハチャメチャに生きて才能を発揮した人も居るのだけれど、私はそんなタマではない。私は結局自分の生活を私なりに丁寧に生きることでしか書けない人間のようだ。ああ、村上春樹についても書きたかったのだけれど余裕がなくなってしまった。また別の機会に。