今日は遅番なので、午前中エリック・ホッファー『波止場日記』を読み直した。このエリック・ホッファーという人は正規の教育を受けず、独学で読書に勤しみ自分なりの思索を編んだ市井の知識人なのだけれど、私もそんな生き方に憧れる。読まずにいられないから読み、考えずにいられないから考える。考え方と生き方が密接に繋がっている人という印象を受ける。故に強い。滅多なことでは折れない。私のことを考える。こんな風にしか生きていけないからこんなスットコドッコイな人生を歩んできた。それを後悔する気持ちはない。
意見を持つこと、考えを練ること……私は本を読むが、やっていることと言えばただ本の文字に目を通すだけだ。誰でもできることだ。そうして虚心に、頭の中をできるだけ空っぽにして活字を追いかけているとふと、どこからともなく自分なりの意見なり考えなりが湧き出てくる。それを言葉にする。でも、それは不思議だ。本の中の意見なり考えなりが私の中に流れ込んでくるのか、私の中にある言葉にならない意見なり考えなりが本を読むことによってくっきり形になるのか。きっと両方なのだろう。本を触媒として、私は今日も考えを編み続ける。
深沢七郎という日本が生んだグレイトな作家は、生きることはヒマつぶしであると言ってのけた。ヒマつぶし……だが、ヒマつぶしを舐めてはいけない。スチャダラパーというヒップホップのグループが「人は必死でヒマをつぶしてるだけだ」と歌っている。恋愛も仕事もヒマつぶしだと。「パッと見生産的なもの以外は無用だとでも言うのか」、と彼らは歌っている。まあ、極論すぎると言えばそれまで。だが、やらずには居られないヒマつぶしとして人は『失われた時を求めて』『大菩薩峠』のような長い小説を書いた。私もヒマを生き抜く知恵を編み出さなければならない。
極論を重ねれば、私がこうやって仕事をすることや日記を書くことになんの意味があるのだろう、とも考える。ないだろう。私が仕事をしなくても他の人が仕事をしてくれるだろうし、日記を書かなくても誰も困らない。だが、私は仕事をするし日記を書く……意味があるかないかとは、私たちが「発見」するものではないかと考えた。漬物石は漬物をつけるために使うと意味や使いみちを「発見」しなければただの石である。同じように、私のこの意味のない駄文も意味を発見されることで有益な文章として存在することになる。その意味で私たちは日々、一見すると無意味なものに意味を見出し、クリエイティブに生きているのかもしれない……とヒマつぶしで考えてみた。