ミヒャエル・ハネケ『コード・アンノウン』を観る。「コード」という言葉は(半ば日本語みたいな言葉であり、だからこそなのだが)改めて「どういう意味だろう」と考えれば考えるほどわけがわからなくなる。「規定」や「準則」、つまり「ルール」みたいな言葉と一応は捉えられるのだが、ではこの「知られざるコード(ルール)」というタイトルの映画でハネケは一体なにを言いたかったのだろう、と考えてしまう。ハネケはそもそも、言いたいことがあって映画を撮る人なのだろうか。伝わらなくてもいい、わかるやつにだけわかれ、というアナーキーなスタンスこそがハネケの特徴のように思う。それ故にひねくれ者の私自身は深く読んでしまいたくなる。
冒頭、手話とジェスチャーで必死に相手になにかを伝えようとする子どもの姿からこの映画は始まる。この姿はラスト近くでもまた映されるのだけれど、この「伝わりそうで伝わらないもどかしさ」というか「絶望的なわかりあえなさ」というものが(仮に誰かとわかりあえたとしても、今度はそのわかりあえた嬉しさを第三者に伝えられないわかりあえなさが現れるわけだが)この映画のテーマではないかと思う。それはしかし、ありふれた現象ではある。物乞いの女性に辛く当たったつもりはないのにそれを咎められるというこの映画の場面、ありがちといえばありがちな誤解に既にそれは現れている。
私たちは、自分の主観に閉じこもったままでは生きていけない。私たちが私的言語というものを持っておらず、他者と共有可能な言葉を介して概念を頭脳の中で編みそれを他人に伝える営みを行っている以上、私たちはどうしたって社会的に開かれた存在であることが期待される。もし本当に私たちが独自の概念の中に閉じこもって生きるとしたら、それは狂人として位置づけられることを意味するしかない。この映画の中でも人々は時に白い目で見られながらも、自分の目から見えた真理を語りそしてそれを他者に伝えようとする。その「真理」はもちろん人によって恐ろしくバラバラに異なるシロモノである。
ある人間からすれば物乞いの女性を侮辱した人間は、ある人間からすればかけがえのない弟である。ここで見られる「分断」がもたらす悲喜劇をハネケはこの映画で表そうとしたかのように映る。ジュリエット・ビノシュが女優を演じていることが殊の外興味深い。女優は言うまでもなく、あるストーリーの役割(つまり、ある虚構作品の「コード」を読み解く存在)を演じるべき人間だからである。だが、私たち自身(凡庸な言い回しになるが)会社ではある役割を、プライベートでは別の役割をそれぞれの「コード」に従って演じていないだろうか。ジュリエット・ビノシュはその私たちの宿命的な「演技」が支える実存をかなり戯画的に表現している。
私たちは日常生活では、とりあえず法律を守り道徳を守って生きている。それが「コード」に従って生きているということである。そんなマクロな「コード」から、会社が決めた社則に従い髭を剃って身だしなみを整え、プライベートでにこやかに振舞いといったミクロな「コード」までそれらを守りつつ生きている。この「コード」を理解できない、あるいは故意に誤読する「他者」(柄谷行人的な?)が現れることがある。この映画の「他者」の現れ方の生々しさは、例えばジュリエット・ビノシュが電車内でチンピラに絡まれるところでわかる。なかなかの生々しさだ。
だが、ハネケはそもそも私たちの生活はそんな「他者」に脅かされ、その「他者」をどう遇していいかわからないという厄介さこそが宿痾であるということを描き続けてきたのではないだろうか。あの『ファニーゲーム』を筆頭に。もしくは、私たちの中にさえ見慣れない自分、「他者」としてのどす黒い本能を持つ自分自身が居るということを突きつけてきたのではないか、と思う。その意味で、この『コード・アンノウン』は私たちが「他者」に脅かされながら生きざるをえない悲しい存在であるという事実を淡々と、断片(「フラグメンツ」!)で描いた作品なのだと思う。