跳舞猫日録

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庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観る。私が大学生だった頃くらいに始まった『新世紀エヴァンゲリオン』も、遂に大団円を迎えることになった。私はテレビ放映されていたシリーズはスルーしていたが、その話題性がアニメの世界を超えて社会現象になってきた頃に(スノッブな性格なので)手を出してみてやられたのだった。爾来、謎解き本や解説本に金を注ぎ込み、数々の論考を読みまくった。でも考えてみればおかしなもので、「だから」ロボットアニメやSFにハマったというわけでもないのである。未だに私はSFは食わず嫌いである。なので、『エヴァ』が持つこの魔性の不可思議さが自分でもわからないでいる。


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ロラン・バルトが言うように、「なにかを語らせる」力に対して時に警戒するのも悪くない。私自身、『エヴァ』に付き合ってきてではなにが私をしてここまで語らせるのか考えたのだけれど、それは『エヴァ』が優れた青春を描いたシリーズであるように感じられたからである。私が読み取るテーマはかなり古典的なもので、「大人になる」とはどういうことかだ。例えば、今回観ていて冒頭の真希波がエヴァで相手に対峙するところで私は「これは『仕事』を表現しているのではないか」と思ってしまった。誰もが知るように、「仕事」とは大人になった人が行う営為である(少なくとも年齢的には……むろん子どもが働いていて大問題になることもあるのだが) 。

そう考えてみると、シンジが碇ゲンドウに呼びつけられてエヴァに乗ることを強いられる際に駄々を……いや異様なまでに自信のなさと違和感を吐露するあたりも(私の中では)納得がいく。エヴァに乗ることとは、私たちがモラトリアムを保証された学校生活を抜け出して初めて自分で食い扶持を稼ぎ責任ある「大人」として社会にコミットする、そのプロセスを意味しているのだ。だというのであればシンジの心理と引きこもり・ニートの心理は意外と近いのかもしれない。むろん、人は必ずしも働かなければならないわけではない(し、ブラック企業は害悪でさえある)という現実も見ておく必要があるが。

あるいは、シンジとゲンドウがそれぞれ語る生きづらさ。いや、この映画で生きづらさを吐露しないリア充なんて人はまず出てこない(居るとしたら、彼らは「一見すると」かなり脳天気なトウジや真希波のような人くらいだ)。この映画では(ややネタバレめくが)登場人物たちは弱さに自覚的で、そしてそれを恥じ強くなろうと必死になる。シンジでさえ「父さん」や綾波のために敢えてエヴァに乗ろうとするし、アスカの涙ぐましさは言うまでもないだろう。そしてこの映画ではゲンドウもまた弱い実存に悩んでいたことが明らかになる。その弱さは私自身の弱さと共鳴するものである。だから他人事として受け取れないのだろう(しかし、これを直ちに庵野秀明本人の弱音と受け取ることは控えたい)。

そして私が改めて感じたのは、この映画で人々が女性というものをどう捉えようとしているかということである。もっと言えば「母性」だろう。「母」たる存在を求めてシンジもゲンドウも足掻くし、アスカだって「母」を必要とした痛ましい過去がある。私自身も母に育てられ、故にバツの悪い思いをしたことはある。あるいは、女性とどう接していいかわからず恥をかいたことなら数え切れないほど存在する。その、大げさに言えば「他者」的な女性との接し方は時に歪んだ方向に暴走する。その心理の歪み方も面白く感じられる(だが流石に「乳の大きいいい女」にはげんなりした)。

ともあれ、『エヴァ』はこうして終わったわけである。エヴァンゲリオンの構造はごてごてした装甲に包まれた人型ロボットだが、その装甲を剥ぎ取ってしまえば中にあるのは非常にデリケートなパイロットの実存そのものだ。このエヴァの構造はそのままこの映画の構造と似通っているように思われる。クオリティの高い、専門用語を撒き散らしたドラマに目を眩まされず見ていけばこの映画はドストエフスキー中上健次的な「父と子の確執」に「母性」を絡めた古典的な文学なのだ。庵野秀明という人はその意味で極めて優れた「文学者」なのだろうと思う。もちろん、「文学者」は平気で嘘をつける人間であることを踏まえた上でこう書いている。