跳舞猫日録

Life goes on brah!

イルディコー・エニェディ『心と体と』

イルディコー・エニェディ監督『心と体と』を観る。綺麗な映像であり、洗練された映画だと思った。こんな言い草はどうかと思うが、漂白されて清らかになった映像を堪能できたような、そんな気がしたのだ。とはいえこれ見よがしにアートしている映画ではなく、基本的には不器用な男女のラブ・ストーリーである。そして、注意深く見ればそんな清らかな世界に中に確実に不協和音というかナスティな要素が忍び込んでいることがわかる。その二枚腰(?)の姿勢が只者ではないと思った。あとでも述べるが、意外とこの監督ハネケにも似ているのではないかとすら思った。むろんストーリーの落とし方はハネケとはまた違った美学を感じさせたのだが。


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スジは簡単だ。ブダペストの食肉処理場で働く男と女が居る。髭面で優しい男と、知性的ではあるが不器用でコミュニケーションも苦手な女。彼らはひょんなことから、双方が同じ夢を見ていることを知る。その夢の中では彼らは鹿となって思い通りに逢瀬を重ねることができたのだった。彼らはその事実に惹かれて現実世界でも結びつくようになる。しかし、彼らのコミュニケーション能力まで向上したわけではないのでふたりは「付かず離れず」の関係に苦しむことになる。女はやがてバスタブで手首を切り自殺を図るが、事態は思いも寄らない方向に転がり出す……という話である。

映画の話をしているのに映画以外のものを引き合いに出すのもどうかと我ながら恥ずかしく思うのだが、しかし私はこの映画を観ていて村上春樹の小説を思い出した。監督が村上春樹のファンなのかどうかまでは知らないのだが、ハルキ・ワールドを彷彿とさせるのはむろん不条理な「夢での逢瀬」という出来事が起こるからである。だが、それだけではない。その不条理は彼らによって日常生活の中に呑み込まれて、彼らの生活をポップな彩りのあるものに変えてしまう。そして、くどくなるが男女は「付かず離れず」の関係を保ち、一線をなかなか越えようとしないこともハルキの世界に似ている。

そんなハルキ・ワールドの世界が、さながらこの映画においては黒沢清ミヒャエル・ハネケの世界と出会ったような不思議なハーモニーを生み出しているというように私は捉えてしまったのだった。黒沢清もハネケも、基本的には生々しい人間を描かない(「異常者」を描くことはあるが、裏返せばそれだけ彼らは普通の人間をリアリティある形で描かない、とも言える。私が言いたいのはそういうことだ)。この映画も同じで主人公たちふたりはなんの変哲もない、記号的な人々なのだ。一体どんな特性を持ちどんなこだわりを持って生きているのか、それが全然伝わってこない。

もちろん、だからダメだなんて話をしているわけではない。人を描かない映画で傑作というのならゴダールだってそうだろう。人を描かない監督の姿勢は、そのまま人が情報の束と化してしまい誰でも類型化されたキャラクターの中に収まりうる社会に世界が変化してしまったことの帰結とも考えられる。とまあ、難しくなってしまったがそんな癖のない男女の恋は全く悲愴感を伴わない自殺未遂を経て、ひとつの形として結実する。ここで悲恋にもハッピーエンドにも走らず第三の中庸を示した(と書くと大袈裟か?)監督や脚本家の姿勢を買いたいと思った。結果としてインパクトがある終わり方ではなくなっているにせよだ。

それにしても、実に白い映画だ。だが、注意して見るとこの映画、ナスティなものというかこちらの心を抉るものを見せてくる侮れなさがある。首を切り落とされた牛から見える臓物。手首を切ったヒロインの入浴シーン。時々挿入されるさほどエッチではないのに奇妙に暴力的な空気を生み出すなにか(女医のグラマラスなバスト、ヒロインが撫でる牛、などなど)。それらは収まりの悪さを誇っており、そんな収まりの悪いものはゴツゴツした異物としてこちらの記憶に焼き付く。そんな異物を見せながら作品のトーンとしてはあくまでラブコメに仕上げた監督の姿勢は、果たして作為なのか天然なのだろうか。それがわからないので戸惑っている。