単純な生活

Life goes on brah!

2025/03/29 おかしくってもダイジョーブ!!

たしか松本俊彦の本で読んだのだったか(熊谷晋一郎、あるいは國分功一郎だったか……もう半世紀も生きるとこうしたかんじんなことを忘れてしまう)、なにはともあれ誰かの本でぼくのような依存症を抱える身には「孤立」は大敵で、「依存先を増やす」ことが「効く」と説かれていたのを読んだ記憶がある。なら、ぼくはまさにそうした「依存先」をたくさん持っている。ぼくは発達障害関連の自助グループに参加させてもらっているし、英語研究会でいろんな英語の文献(英文の新聞記事など)を読ませてもらったりもする。市の国際交流協会が主催する英会話教室にも通い、断酒会にも救われている。こうしたリアルの会合のみならず、LINEにおいても哲学関係のグループに籍を置きそこでいろんなディスカッションを楽しむ。ほかには英会話のLINEグループで英語であれこれ語らったりもする。くわえて、ソーシャルメディアFacebookやMeWeなどをつかったり、その他プラットフォームとしてDiscordを使ったりもする。Twitterのアカウントも持っているのだが、これはなんだか(はっきり書くと)揚げ足取りの極みのようなゴミしか散見されないのでアカウントを消そうかと考えている始末だ。

今朝、いつもながら英会話関係のZoomミーティングに参加しぼく自身の「英語脳」を鍛える。その後、10時になって早番の仕事をはじめた。仕事中、ふとこの人生に意味があるんだかないんだかわからないということをあれこれ考えてしまう。意味がなくても生きているだけで尊い、と思いたい。ただ生き続けることだってそうとう努力というか「死なない工夫」(鶴見済)が必要だろう……ご心配なく、いまはそんなことは考えていない(この脳は平常運転です)。メモパッドや他の紙片にこうしたことを書き留める。この種の非現実的で抽象的で、つまり考えるだけムダなことについて、ふと10代のことを振り返ってしまった。あの頃からぼくはこの発達障害ゆえの生きづらさに悩まされ、いろんなシチュエーションにおいて(いじめに遭ったりディスコミュニケーションに苦しめられたりして)つらくて、だから「生まれてきたのは間違いだったのかなあ」とも思ったりしたのだった。そこから実存主義的な考えまではあと少しだ。あるいは、こうして噛み合わなさに苦しめられたことがのちにウィトゲンシュタイン柄谷行人の「言語ゲーム」をめぐる考えに誘われるきっかけになったのかなとも思う。

あのころ、もちろんたぶんコンピュータ同士のネットワークはあっただろうと思うが(パソコン通信や、あるいはもっと専門的なネットワークが存在していたとは仄聞したことがある)、いまのようなインターネットというインフラとしては結実してなかったはずだ(ただ、ぼくの記憶違いの可能性もある。間違ってたら教えて下さい)。いまはインターネットを使って哲学的で抽象的な質問や柄谷行人チックに言えば「探究」を信頼できる知己同士で繰り広げ、ディスカッションに興じることも可能だ。さっき書いた「人生に意味があるかどうか」的なこと以外には「広島に原爆が落とされたというのはフェイク(デマ)ではないか」という議論だってできる。ちなみにぼくは広島の原爆投下をフェイクだとはまったくもって思わないが、でもこんな質問を禁じていいか・禁じるべきかどうかはまた別種に議論を要するだろう。そこから「アウシュヴィッツダッハウはデマだったか」「デマだったか否かをいちいち相手にして議論を行うより、法で一気に規制したほうが効果的ではないか」なんて議論も可能なはずだ。

ぼくはもちろん、ただの一介のトーシロだ。プロの哲学者には逆立ちしたってなれっこない。ウィトゲンシュタインバートランド・ラッセル柄谷行人吉本隆明といった人たちの域に到達するにはまだまだ修行が足りないというもの。でも、こんな日曜哲学者というかアマチュア哲学者の身として、さっきも書いたグループで哲学に興じれるのは嬉しい。ほかにも英語や発達障害やその他の話題でつながり、ミーティングを楽しめるのをありがたく思う。たまにはたぶんフラッシュバックや怒りや不安や疑念であれこれ頭がおかしくなることもあるけれど、でも友だちがいることが脳を平常運転に保てる秘訣になっているのかなあ、と思う。なにはともあれ、今日も仕事をこなした。その後は阿久津隆の日記を読んだり柄谷行人の『探究I』をめくったり(読んだり、ではない。疲れていて頭に入らなかった)して、その後はスヤスヤ寝た。

2025/03/28 頭蓋骨の中の暗箱

BGM: Aztec Camera - Oblivious

今日は遅番勤務の日。今朝、毎朝恒例の英会話関係のZoomミーティングに顔を出し、そこで英語であれこれやり取り。今日の話題は蕎麦やラーメンといった日本でさかんな食文化についてだったが、大阪で起きている少子化ゆえの学校の統合の話などもシェアされて話が混沌として盛り上がる。その後、いつもながらグループホームの本家に行かせてもらいその食堂を使わせてもらってあれこれ時間をつぶす。まず、そのグループホームの入居者の方々や世話人さんや管理者の方々と会話を交わして楽しんだ後、著名な同時通訳者である米原万里のエッセイ(『不実な美女か貞淑な醜女か』に収録されている)を読む。翻訳や通訳の現場の事情やそこからくる言語間の伝達(「訳」というプロセス・過程を通すうえで避けられない誤解など)がきわめてたんねんに考察されており、唸ってしまう。毎朝、もう逃げたいとか死にたいとかそこまで考えてしまうほど不安に駆られて落ち着かなくなるものの、この米原のエッセイは実にぼくをこの世界に繋ぎ止め、さまざまなことを考えさせてくれた。

このエッセイの中で、米原はぼくたちの脳というものが一種の見えない「コンバータ」というか「ブラックボックス(暗箱)」であると語っている。あたりまえの話をすると、脳の中というのは基本的に目に見えないメカニズムが存在していてそれがぼくたちに翻訳や通訳といった作業、ひいては言葉を使った活動そのものを可能たらしめている。いや、コロンブスの卵的な実に明白な事実ではあるが、でもそれを現場で通訳として活躍した実体験と豊富な知識から書き記した米原の筆は冴える。ぼくに限った話をすれば、ぼくの脳だってぼくからすれば立派な「ブラックボックス」だ。いったいどういうわけで英語でこんな感じでさまざまな考えの断片をメモパッドに書きつけていくというのか。その合理的な説明がぼくにはできない。あるいは、もっとカネになりそうなことを考えればいいというのにこんな抽象的なことに惹かれるぼくの心理・脳内をぼくはまったく説明できない。そういうものだ、としか言いようがない。

この日記でも書いてきた通り、ここ(この町、あるいはこの国)ではおしなべて皆日本語を使ってそれぞれの意思伝達にいそしむ。いや、ぼくだって考える際のベースになっているのは母国語たる日本語であり、日常生活における買い物だってなんだって日本語でこなしている。ただ、メモパッドにアイデアを書きつけるべくフリクションペンを持ち、そしてサラサラっとペンを走らせていく段取りになって英語がどこからともなく湧いてくる。いや、どこからなのかわからない。目に見えないメカニズム、というのはまさにそのとおりで書き始めると脳内のブラックボックスから英語が出てきてメモパッドに結実するのだ。もちろんぼくの英語がネイティブの人から見れば目も当てられない・間違いだらけのものなのは明白とも思うのだけれど。

そんな感じで米原万里のエッセイを読み終えて、時間もあったのでまたイタズラ書きを楽しむ。それをグループホームの管理者の方々にお見せした後に、いろんなソーシャルメディアやその他プラットフォームを使って友だちに見せる。いや、英語の間違いはもちろんのこと、描いたと言ってもサラサラ30分ほどかけただけの手抜きの極みなので傑作とはほど遠いが、でも友だちはこの言わんとすることを汲み取ってくれて、喜ばれた。もっと描きたいと思った。

1時から仕事を開始する。そして、3時から今日はジョブコーチとの面談あり、それで職場で30分ほどミーティングをおこなった。いろんなことを話し合う。悪性のウイルスに罹患して倒れていた時のことや、英会話のことなどを話す。そのジョブコーチとの面談も会を重ね、だんだん人となりがわかってきたように思う。その方を悪く言うつもりはないが、でも彼女が「仕事はどう?」と訊いてこられたのはさすがに黙らざるをえなかった。というのは、とてもこの質問が「いったいなにを訊いているんだろう?」「なにを知りたいんだ?」としか言いようのない抽象的で難解なシロモノとしか思えなかったからだ。なにをどう解答したらいいんだろう? 精神面のことか、肉体面のことか? 彼女はこうした質問を切り口に会話を広げたかったのかもしれないが、でもぼくからすればこのぼく自身のムダな厳密さこそが発達障害の特性なのだとしか言いようがない。もちろんこのことはそのジョブコーチに言わせてもらった。生意気だっただろうか……むずかしいものだ。

2025/03/27 青春はいちどだけ?

BGM: Trashcan Sinatras - Obscurity Knocks

今日は早番だった。今朝方、いつものように英会話関係のZoomミーティングに参加し、さわやかに英語脳をきたえる。この英会話グループに参加して、こうして参加できる時にいそいそとZoomミーティングに参加するようになってかれこれ2年かそこら経つだろうか。これはお世辞やおべんちゃらではなく本気で書くけれど、このグループにぼくはたしかな居心地の良さを感じる。というのは、やはり参加されている方々が英語力を向上させる熱意を示されていることがぼくのような「ぼんくら」にも刺激として伝わるからだろう。ぼくはどうだろうか……何度もこのミーティングに参加するうちにぼくもそれなりに・少しばかりスキル(技量)を向上させられたかなあとは思う。いやもちろんまだ完成形にはほど遠いし、そこに至るまで(そんなところにぼくが存命中にたどり着けるかどうかわからないが、いずれにせよ)もっと頑張らないといけないことはたしかなのだけれど。なんにせよ、このミーティングを実現されている方々の尽力には文字どおり頭が下がるし、「足を向けては眠れない」というものだ。ありがとうございます。

今朝のミーティングのテーマは、ぼくたちが満腹の状態であったとしても砂糖(糖分)を欲しがってしまう、つまりは「別腹」と呼ばれる心理状態がどう生起するかというメカニズムについてだった。そこから偽薬効果(プラシーボ効果、というやつです)の話などいろいろ多岐にわたって話が展開した。いろんな側面からこの現象を解き明かして説明することはできるのだろう。でも、ぼくは(さっきも書いたがいかんせん「ぼんくら」なので)これが非理性的でバカげたことのようにも感じる。でも「別腹」と呼ばれる心理状態とぼくはもちろん無縁ではない。脳が砂糖を欲しがる、その欲求に逆らえない心理は痛いほどわかるつもりだ。だから今朝方の仕事中はそもそもぼくという人間それ自体がとても理性的とは言えない、合理的に説明がつかないことばかりしてしまったり時間やカネの無駄としか思えないことをやめられなかったりすることについてあれこれ考えてしまった……というか、「こんなこと」を考えること自体およそ理性的ではないのである。もっと考えることがあるだろうとも思うが(4月からの身の振り方をどうするかとか)、こんな性分なのだから「笑って許して」としか言いようがない。

たとえば、これまたいつも書いていることをおさらいすることになるけれど、ぼくはコロナ禍のころに始めた「英語メモ」を日々の生活の中でつけることを欠かさない(というか、やめようと思ってもついつい書いてしまうのだ)。もちろんここは日本でぼくは日本人なのだから、そんなことに意味はとくにない。でも、英語はぼくにとってなぜか「心の中のゴミ」を外に吐き出してしまい、アウトプットするための良き触媒というかツールであり続けているようだ。そして、気取った言い方をするがマルマンのメモパッドと手頃なフリクションペンはぼくにとってそうしたアウトプットのための「デバイス(機器)」である(それらがないと、この気まぐれな脳はすぐに考えたことをきれいさっぱり忘れてしまい、思い出せなくなる)。ぼくはチャットGPTのようなAIではない。矛盾に満ちた、ランダムとさえ言える存在だ。いや、人間とはおしなべてそうであるんだろうとも思うけれど。

ここまで書いて、メモパッドを開き英語メモを読み返す。そして、さっそく大事なことをきれいさっぱり忘却してしまっていたことに気づく。というのは昨日の話になるが、職場でせっせと仕事をしていたときにある大事な友だちとふと出くわしたのだった。彼はぼくに対して、いつも英語メモを書き書きしていることについて、そこからぼくの熱意を読み取られたらしく「いつも励まされています」「頑張ってください」とおっしゃった。もちろんそれは非常に面映ゆいことで、他人とこうして結べたコネクション(絆)のありがたみをあらためて感じさせられ、それがとりもなおさずもう人生も後半戦にさしかかっているはずのぼくをあらためて前へ前へと進ませるブースターになっているのかなあ、とかなんとか思っちゃったりした。というか、もうぼくも今年で50になるのにこんな友情をたしかめられるのだから人生というものはわからないと思う。

その後、仕事もなんとか終わり部屋に戻り、夕飯に酢豚をいただいた後に7時半から毎週木曜日恒例のZoomミーティングに参加する。こんかいのミーティングでは小イベントとして「ビブリオバトル」を楽しむ。各メンバーがそれぞれ好きな本を持ち寄り、5分間のプレゼンテーションをおこなってそれでそれをもとにワイワイとディスカッションに興じるという企画だった。この日記でも折に触れて書いてきたが、ぼくは袖川裕美『同時通訳はやめられない』という平凡社新書を紹介する。他の方々の本から、それぞれのメンバーの個性がうかがえ楽しい会となったと思った。ありがとうございます。

2025/03/26 ココロの庭から

BGM: Everything But The Girl - Downtown Train

今日は遅番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングに顔を出し、そこであれこれ・せっせと英語でやり取り。その後、遅番勤務の朝のプレッシャー特盛の憂鬱な時間を過ごすためにグループホームの本家におもむき、そこで食堂を使わせてもらい読書やメモ書きなどの時間を過ごさせてもらう。遅番勤務の朝というのはいつだってつらい。ぼくの性格というのは実に難儀で、だから「午後に仕事があるのだから午前はヒマだ」「ヒマだったらテキトーにだらだら時間をつぶそう」と切り替えられない。午前になにをしようが、午後のことがちらちら頭をよぎって落ち着かなくなるのだった。あるいは根っからの発達障害(多動性障害)の気性の持ち主ゆえなのか、テキトーに過ごそうかと思ってもそれでもぼんやりしていると産毛がチリチリするようなプレッシャーが迫りきてしまう。仕事のプレッシャーというのもあるし、ムダに時間が過ぎるのがこわいというプレッシャーもある。いや、だからといって計画性を持って日々過ごしているわけではまったくもってないのだけれど……なにはともあれ、そんな感じでプレッシャーと格闘しているとそれだけで頭がおかしくなる。とくにこんな桜が咲き始める時期はそうだ。春は頭がおかしくなる時期だ。

そんな感じでジリジリと産毛を炙られるような時間を、トレーシー・ソーンやベン・ワット、あるいはエブリシング・バット・ザ・ガールなんかを聴いたりして過ごす。明日木曜日の夜、毎週恒例の友だちとのZoomのミーティングを行うことになっているのだけどそこでなんでも「ビブリオバトル」というイベントをするようだ。メンバーが各々紹介したい本を持ち寄り、そして5分のプレゼンテーションをそれぞれこなしてそれをとおして他人にオススメし合うという企画らしい。どんな本を紹介したらいいかぼくもあれこれ考える。紹介したい作家ならたくさん存在する。それこそ村上春樹片岡義男沢木耕太郎ははずせないし、多和田葉子やぼくが瞠目して読ませてもらっている三木那由他や永井玲衣だってはずしたくない。でも、昨日読んでこの日記でも書かせてもらった袖川裕美『同時通訳はやめられない』を紹介できればと思った。袖川裕美のこの1冊をとおしてぼくは語学の学習にまつわるコツ・秘訣をさまざまに学ばせてもらったから、身体があたたまっているうちにそれを紹介したくなったのだった。

そうしてビブリオバトルのことを考え終えて、我に返るとなんだかまたプレッシャーにさいなまれてしまい落ち着かなくなる。あるいはもうこれはなにか、ぼくが根本的なところにおいて考え違いをしているとしか思えなかった。ぼくはこうして遅番勤務の日の朝、本やオンラインの記事なんかを読んでそれで英語を使ってそうした文章群から得られたことを英語でメモパッドに書きつけていき、思っていることを可能な限り明晰に・ひらたく言語化していこうとこころみる(英語で書くのは「なんとなく」だが、日本語で書くよりなんだか――ただの気のせいかもしれないけれど――ぼくの思考は英語を通すと明晰になるような印象を感じる)。でも、今朝はまったくもって心の中を見つめ続けても「無」しか存在せず、だからなんにも書けなかった。その空虚をつかまえようとしても、逃げ水のようにぼくから遠ざかっていく。時間のムダだと思ってあきらめてしまう羽目になった。ああ、実は柄谷行人の『探究I』なんかも持っていってみたのだがけっきょくページを開くことさえなかったのだった。ムダが多すぎるのがぼくの生活の情けなさ。

でもだからといって、な~んにもしないで1時間ジリジリとプレッシャーの炎に炙られる時間を過ごすのももちろん拷問のようで耐えがたい。なので、さいきん読んだ河合隼雄の発言のことを思い出し、どうせならぼくの中にある思念を表に(性急に「言語化」「文字化」するのではなく)吐露してしまおう、放流してしまおうと考えた。そうするためになにかないかと思い、するとカバンの中にあるクリアファイルに白い紙片が1枚挟んであったのでそれを使って「ドゥードゥルアート(イタズラ書き)」にいそしむ。つまりはぼくも「箱庭療法」をしてみたかったのだった。思いをまず、言語化・文字化して小さくまとめてしまうのではなく、ありのままに受けとめたいと思った。「心の中のゴミ」を自在に出してしまう、というか。ぼくはズボンの中にフリクションペンを持っているのだけど、そのペンでサラサラと書きなぐっていく。その後、それがカタチになったことを確認したのでWhatsAppやWeChat、LINEやDiscordやMeWeといったメディアで友だちに見せた。英語のオヤジギャグゆえに伝わるかどうか心もとなかったのだけれど友だちは理解してくれたようで、それがうれしかった。

2025/03/25 仄暗い井戸の底から

BGM: Oasis - Live Forever

今日は休日だった。今朝、いつもながら時間もあり絶好の英語日和(なんじゃそりゃ)だったので英会話関係のZoomミーティングに精を出す。今日のテーマはなんでも世界でも名高い吉本ばななのニセの新刊がAmazonで売られたというできごとについてだった。その後は部屋にいてもやることもなかったので、これまたイオンにはるばるバイクを飛ばして10分かけてひとっ走り。そこで、さいきん『アンダーグラウンド』『ねじまき鳥クロニクル』なんかを読み進めていることもあってその副読本として前々から読み返したいと思っていた、村上春樹ユング派心理学の泰斗・河合隼雄の対談『村上春樹河合隼雄に会いに行く』を開きしばし読みふけって過ごした。

さいきんになって、あの地下鉄サリン事件のあった日が再来したりしてなんだか落ち着かなくなったせいもあってか、ぼくはオウム真理教のことを(ただの一介の小市民でしかなく、したがって専門家でもなんでもないというのに)あれこれ考えている。もちろん、それこそ「彼らはただの奇矯な人たちの集まり(俗に言う『カルト』)だ」で終わらせてしまえば話は早いし、それこそ利口な態度というべきものなのかもしれない。いや、ガチで浅田彰的にそう彼我を「切り離す」ことで「引導を渡す」ことこそ大人の態度なのかなあ、とも思ったりもする。でも、たぶんぼくの中にはいまだ弱さがあり、あるいは心のなかが虚ろであって、だから彼らの真剣さというかさまよえる良心にいまだどこか惹かれるというか、「ぼくももしかしたらオウムに入っていたのかなあ」「サリンを撒くことを真剣に『世直し』『救済』と信じていたかもしれない」と思ってしまう。言い換えればそんな、喪黒福造が喜びそうな「心のスキマ」がある。村上春樹的に言えば心の中に深い深い「井戸」がある。だから、その穴を埋めるためにあれこれ本を読みふけるのかなあ、とも思った。村上春樹を筆頭に、片岡義男沢木耕太郎多和田葉子といった人たちを。

WhatsAppやDiscordなんかで、いったいどういうわけでこうしたつながり・知遇を得られたのか忘れてしまったが、なにはともあれイスラム教を筆頭に信心深いさまざまな宗教の信者たちの神や信心に対するテキストを読ませてもらう。彼らにはもちろん申し訳ない話になるが、ぼくはいまだ神は信じられない(いたとしたらそれこそAI的な、人知を超えていてぼくたち人間とまったくもって異なる思考システムというか、比喩的に言えば別種の「OS」で動いている存在だろう)。それどころか、過去それこそオウム事件があった時期あたりのあの若かりし頃(つまり1990年代)、ぼくは神も宗教もただの妄想だとさえ思ったりしたのだった。いまならその理由を言語化できるかもしれない。ぼくは鶴見俊輔的に自分のことを「悪」「邪悪」の煮凝りだと思っている。だから救われる価値なんてないかな、とさえどこかで思っている。バカげた、ある意味とても「極端」すぎる発想なのはぼくもわかっているつもりだがぼくはきわめておおまじめに書いている。いまだってぼくの中には邪心・邪念のマグマがある。

午後になり、となり町の図書館で村上春樹中沢新一(読まず嫌いだったのだけど、ついに手に取って読んでみたいと思った)なんかと一緒に借りた平凡社新書の袖川裕美『同時通訳はやめられない』をペラペラめくっていたら、これがなかなか惹きつける1冊でついに読みふける。いや、聞いたこともない著者だったのだがこれは掘り出し物だと唸らされた。袖川はこの本で通訳の仕事について「職人(アルチザン)」という言葉で形容している。つまり、たゆまぬ努力によって日々英語力や日本語力、さまざまなコミュニケーション能力なんかを鍛え上げ、向上させるねばり強さが必要だということになろうか。

いま、ぼくはこの袖川の言葉がわかるような気がする。もちろんぼくの英語力はそれこそ同時通訳なんてことができるたぐいのレベルではないので、袖川の足元にも及ぶわけがない(それこそ「月とスッポン」である)。ただ、それでもイチ英語学習者なりに思ったのはぼくもまた毎日の修練・努力によってこそぼくの英語力が向上してきているという事実だ(ただ、さいきんではマンネリ・停滞を感じたりもしている。その意味でこの袖川の本はカンフル剤になってくれた)。彼女のような熟達した「職人」であっても、事前の下調べや日々向上するための修練を欠かさないことに唸らされ、ぼくもこうありたい・学ばせていただきたいと切に思ってしまった。

来たる木曜日の夜、予定が合えば毎週行われている友だちとのZoomで「ビブリオバトル」(それぞれが愛読する本を紹介し合うイベント)をやると聞いている。この本について、もっと下調べする時間があれば念入りにおこなって、そして紹介したいと思ったりもした。

2025/03/24 時は流れる

BGM: New Order - World In Motion

今日は遅番だった。今朝、いつもながら英会話関係のZoomミーティングに精を出す。今日の英会話のテーマは動物園全般の長所と短所(メリット・デメリット)だった。つまり、野生動物たちの生きる権利について。毎度毎度同じことを書いてしまうが、それでも嘘いつわりのない事実としてこのミーティングではそれぞれ参加される方々の英語力にいつもうならされ、自分はまだまだだと反省させられている。いや、ぼくの場合はただ英語を趣味の一環としてやっているに過ぎないのでそうした甘さもあり自分の英語力にいまだ自信を持てなかったりする。他の方々はその点、実に流暢な英語を話されるのでそのテクニックに唸らされてしまうし彼ら自身の「豊かな」「肥沃な」人間性というものも見えるように思う。こうした場が成り立つのはほかでもなく(そして、いまさら言うまでもなく)管理者の方々の尽力ゆえ。あらためて感謝したいと思った。

そのミーティングが終わって後、朝食を摂った後にグループホームの本家におもむく。そこでぼくは今日は村上春樹地下鉄サリン事件を題材にあつかったノンフィクション『アンダーグラウンド』を楽しむ。というのは、あれやこれやで読み進めていた『ねじまき鳥クロニクル』も最終巻を残すのみとなったが、これを部屋に置き忘れてしまいかわりにこの本をカバンの中に入れていたのだった。ソウル&ファンクの名曲群(スティービー・ワンダーなど)を聴きつつこの本をちまちま読み進めて時間を過ごした。 

アンダーグラウンド』があつかうあの地下鉄サリン事件は1995年に起こったのだという。そんなに昔の話になるのか、とあらためて感慨にふける(いや、こういう書き方はもちろん巻き込まれた方々に失礼か。申し訳ない)。このノンフィクションの巨編をはじめて読んだのはぼくが大学生だったか、それとも卒業してまもなくだったか。とくにそんなに感銘を受けたわけでもなく、むしろ実に長ったらしいとも思い退屈だとさえ感じた。これは正直に書いておきたい。だが、だからといってこの本を「駄作」とも切り捨てられない。ぼくの感覚はたぶん人と違うのかもしれない(だからぼくの場合、この『アンダーグラウンド』のあとに出た『約束された場所で』というオウムの信者たちに肉薄したノンフィクションの方を好んで読んだ。つまり、サリンガスを撒いた当事者たちがいったいなにを考えていたかについてぼく自身「もしかしたらオウムに入っていたかもしれない人」として興味を抱いたわけだ)。

もちろん午前の何時間かを費やしただけなのでこの『アンダーグラウンド』をまだ全部読めていないが、それでも興味を惹くのは春樹がオウムの行為をめぐって「暴力」というキーワードを用いていることだ(ただ、これは海外ではどう英訳されているのか気になったりもする)。春樹はそうした言葉づかいをとおしてオウムの行為が社会への「侵略」「攻撃」であると見なしているようにも見える。もちろん、まだ全部読めていないので即断・早とちりの可能性は大だがそれでもぼくはこの態度に賛同したい。ただ、それを踏まえたうえで言えばぼくの場合はさっきも書いたように「ぼくの中のオウム」「内なる『さまよえる魂』」といったものがまだ救いを求めてうろうろしてしまう、そんなことを考えてしまうようだ。もちろん地下鉄サリン事件を断じて許したいとも思わないし、オウムに入るか入らないかという話になるともちろん「ノー」と言うしかない。ただ、それはそれとしてオウムのメンバーにそれなりに(あやうい)興味を持ってしまうのもたしかだ。ここで境界線(バウンダリー)をきちんと引かないといけないんだろうな、とも思う。

そんなこんなで読書タイムを終えて、紙片があったのでそれにいたずら書きを楽しむ。その後、それをWhatsAppやWeChatなどのソーシャルメディアをとおして拡散し友だちに見せて感想を乞うたところ、総じて評判がよかったのでうれしかった。時間があれば明日、スケッチとペンを何本か買ってこうしたいたずら書きをもっともっと楽しみたいと思った。

2025/03/23 「情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう」(ザ・ブルーハーツ)

BGM: 平沢進 - 広場で

どうしたらこの人生を受け容れられるんだろう……仮にこのぼくが「永遠の自分の哲学のテーマ」というものを持っているとするなら、それはたぶんなんら「デカい」ものではありえずこんな感じでほんとうにしみったれたというか、ミニマルで個人的なものとして収斂してしまうんだろうと思う。ハイデガーのような世界や時間の神秘を解き明かすでもなく、あるいはぼくが敬愛しているウィトゲンシュタインのように言葉やコミュニケーションの不可能性・神秘性をめぐって緻密きわまりない思索を繰り広げるでもなく、柄谷行人のように「他者」「外部」の謎を「探究」し続けるでもなく。

ということは、それはもう「哲学」でさえありえないかもしれない。文学や個人的な思想信条の次元で自足しているたぐいのものというかなんというか……だから公にしていいものかどうかもわからないし、誰かに訴えかけてその人を助けられる・救済できるたぐいのものでもないかもしれない。でも、もうこの歳まで生きたらそういうこともあきらめがついてしまうのか、それでもいいかなとも思う。もう読者のみなさんは先刻承知されているように、ぼくはなんらグル(尊師)でもなく聖者でもない。そんなものであるわけがない。ただの名もなきどら猫である。

まだぼくが若かったころ、思うのはなにをやっても三日坊主で長続きせず、なんらこれといって一貫してねばり強くタフネスを発揮できる対象が見つからず、情熱を燃やすこともできずじまいでうろうろするしかなかったことである。まさに停滞し、若さを持て余していたのだった。いや、正確に言えばあの頃から書くことは始めていた。当時ぼくは書くことなら誰かに対してアピールできるかもしれないと思い(そんなあさましい動機を書くことの中心・主眼に据えていいのかどうかは議論の余地があるかもしれなかったが)、なにはともあれせっせと当時聴いていた音楽や親しんでいた文学の感想文を記事としてしたため、そして手作りのミニコミとして友だちと一緒に刊行したりさえしたのだった。

でも、そんなことをしても(いま思えばもちろんほんとうにありがたい体験だったとはいえ)、ぜんぜん心が満たされるのを感じなかった。当時、たしか孫正義やその他さまざまな「カリスマ」「時代の寵児」たちの言葉にほだされ、彼らが夢や志やヴィジョンを持つべきと力説しているのに乗っかってぼくもシャキッと夢を持とうとした。でも、一方では彼らの言葉に欺瞞や嘘を感じてしまった。いや、違う。彼らの言葉は真実と認めるにやぶさかではない。ただ、ぼくにはまぶしすぎた。当時のぼくに必要だったのはもっと別の言葉だった。

言い換えればぼくはまず、ほんとうに絶望的というかどん底というか、ボトムの状態にいたのだからまずあの時期のぼくに必要だったのは「承認」ではなかったかなと思う。いやもちろんぼくは加藤諦三橋本治のような(イヤミではなく本心で書いているが)人間観察・人間心理を読み解くベテランではない。心理学に長けているわけでもなく、哲学にしたっていまだ「途上」をうろうろしているのが関の山の修行中の身でしかない。もっと言ってしまえばただの労働者だ。でも、そういう「承認」「セイ・イエス(YESと言う)」が大事ではないか。そうして「ここにいてもいい」「自分は無力・孤独ではない」という事実によって救われて、「そこから」「その後に」こそ夢や大志に向かって前へ前へと歩けるんじゃないかなあと思う。どうだろう。

今朝はいつもどおり英会話関係のZoomに顔を出し、そこで英語であれこれやり取り。その後、10時から仕事に入る。昼食時の休憩時間になり、そこでふとFacebookの英語学習の先輩が「フットワーク」という言葉についてシェアされていたのを読む。それはかならずしも一般的に使われている英語ではないというのだった。ネイティブ・スピーカーたちのあいだではボクシングの専門用語として知られているらしい。日本では言うまでもなく「猪木は政治家としてフットワークが軽かった」とかなんとかごくあたりまえのように使われる言葉で、それがおもしろい。ググってみたり、あまつさえチャットGPTにこのことを投げかけてみたりして、そうこうして昼休みをつぶした。ああ、なんとも活動的というか。だからぼくの情熱は消え失せたわけではないのかもしれない。

いや、いまだぼくはエア・ポケット的なからっぽの状態というか、スランプを感じていたりする。でも、それでもこんな感じで炎が燃えているというかなにか煮えたぎっているというか、それもまたたしかなようでもある。だったらそんな炎さえ気をつけて過ごしていれば、また新しい局面に出くわすのかもしれない。波のように……なら、また「ビッグ・ウェンズデー」的な波がくるのかなあ、とも思った。なんかノンキな響きに聞こえるが。そんな感じで仕事をして、夜は『ねじまき鳥クロニクル』の2巻をおしりまで読み終えて3巻目の頭まで来たところで力尽きた。