跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/29 BGM: Massive Attack - Be Thankful For What You've Got

今日は休みだった。今朝、図書館に行き鈴木邦男愛国者は信用できるか』を借りる。私自身の十代の頃を思い出す……高校生の頃、私は極左の思想にカブれていた。いじめられっ子だったことはいつも書いている通りだが、そんな風に孤独だったことがさらに自分の攻撃性を強めたのだろう。とはいえさして勉強して理論武装に務めたわけでもなく、小林よしのりゴーマニズム宣言』にイカれて右翼とは別の意味で「憂国の志士」を気取っていたにすぎず、つまりは(今に始まったことではないが)ただのアホだったということになる。今思い出しても汗顔の至りというか、ここから教訓として導き出せるのは「人間、孤独をこじらせるとロクなことにならないのだなあ」ということかなと思ってしまう。

その後私は(なぜかわからないが)早稲田に入り、そして深刻なアイデンティティ・クライシスに悩むことになる。というのは私はそれまで周囲に敵意を募らせることによって自我を保っていたところがあったので、「自分以外は敵だ」と思い込んでいたのだった。それが、大学に入ってみると全国から(海外からも)普通に自分と接してくれる人と過ごすことになり、私は「自分以外は敵だ」という思い込みを捨てなければならないことになる。そうなると、人とどう接していいかわからないという悩みを抱えることになる。心を許し、開く。そんな簡単なことさえできない自分がいることに気付かされ、結果として友だちを作ることはおろか普通に挨拶することさえできないことを思い知ったからである。

危なかったな、と思ってしまう。世が世なら私はまさにネット右翼になっていてもおかしくなかった。左翼や右翼問わず常に何かを盲信してその盲信をバネに他人を見下し、結果として周囲を敵に回し孤立して生きる人生を送っていたかもしれない、と思う。これは図書館に行って『ネット右翼になった父』という本を見かけて思ったことだ(もちろん読んでみるつもりだ)。結果論として自分はネット右翼にならず、左翼としても相変わらず出来損ないのまま大人になってしまったのだけれど、そんな自分と秋葉原無差別殺傷事件を起こした犯人やあるいは安倍元総理を暗殺した男との距離は近かったと私は確信している。私自身がもしかしたら取り返しのつかないことをしでかしていたかもしれない、と。

結局私はその後郷里に戻り、自分はいざ小説を書けばそれが周囲に認められて人生一発大逆転のグランドスラムを成し遂げられると確信して(こう書いて、「やはり自分はアホだなあ」と思ってしまう)、でも結局何も書けずに酒に溺れる人生を送ることになる。太宰治に倣って「恥の多い生涯」だったと言うべきか。今は断酒会があり、その他にも多くの場所で仲間を作ることができて幸せを掴めたと思っている。その仲間を通して、私は初めて自分の輪郭を掴めて「自分は無敵だ」「才能がある」「天才だ(世間が認めないだけだ)」という万能感を手放すことができたのだった……そうして大人になれたことは難しい言葉を使えば「重畳」なこと、何よりもラッキーなことだと思うのだった。

2023/01/28 BGM: フジファブリック - 桜の季節

「お前なんか失せろ」「死んでしまえ」……実を言うと今でも時折そんな言葉を聞くように思う。もちろんそんな言葉は幻聴に過ぎない。今はそんなことを言う人はどこにもいない。でも、過去にずっと嫌われて、やることなすことボロクソに言われて過ごしてきた経験は染み付いてしまっている。過去にこうしたことを思い出して憎悪に取り憑かれて、あいつらをぶん殴るまで死ねないと復讐まで誓って生きたことを思い出す。腸が煮えくり返る思いを抱えて、酒に溺れて生きたことを。何も悪いことをした覚えはないのに、なぜ自分はこんなつらい目に遭わないといけないのだろうとひたすら憎悪を煮えたぎらせた日々……今はそんなことは考えない。人生は続く。季節はめぐる。

今日の昼休み、弁当を食べながら久々にかせきさいだぁという日本のヒップホップのアーティストのアルバムを聴いた。梶井基次郎に影響された人だそうで、実際に梶井の文章を引用して軽快に言葉を放つその音楽に魅入ってしまった。梶井基次郎か……梶井基次郎は近所の古本屋で安く買った文庫を1冊持っている。過去に通読して感銘を受けたことを思い出す。梶井の「桜の樹の下には」を読み、自分自身春になって桜の花があんなにも満開になっているのを観るとなんだか花の精気が充溢しているのを見る思いがして、容易に近寄り難いものを感じてしまうのを思い出す。そして、確かに死体が埋まっていると想像してしまうのも合点がいくかなと思ってしまったのだった……と書いて、こんなことを考える人間だからいじめに遭ったのかなあ、と思ってしまう。

ここ最近雪の影響でバイクに乗れないので、徒歩で職場に通っている。歩いてたかだか10分なのだけれど、それでも普段ナマッた身体には疲れる。なので今日は帰ってきてからただひたすら惰眠を貪った。起きたら永井均存在と時間 哲学探究I』を読む。私が他の誰でもなくこの「私」、つまりここでこうして日記を書いたりエッチな動画を見たり、永井均を読んだりフジファブリックを聴いたりしている自分であること。そんな雑多な事柄をやってのける自分自身であることに驚くこと……だが、そんな私もまた他の人からすれば1人の人間である。他の人には他の人の人格があり、そうした人々が寄り集まってこの世界が出来上がっている。その事実が端的に私を感動させる。ああ、この世界は実に豊かだ。

50代に差し掛かり、「これから、桜の花をあと何度見られるだろう」と考えるようになり……若い頃はこんな感傷とは無縁に、「もうこんな人生うんざりだ」「老後なんてどうでもいい。どうせ自分はのたれ死にするんだ。今が楽しければそれでいいんだ」と思って酒に溺れたのだった。今はそれとはまた違った角度から、「今日1日、酒を断って大事に生きよう」と思うようになった。これからどんな人生が待っているのかわからない。ただ、その時その時やれるだけのことをやる。そして、その瞬間を大事に生きて明日につなげる。明日はきっといい日だと信じて。たまには梶井基次郎を読んだり、フジファブリックスピッツサニーデイ・サービスを聴いたりして。安吾を読むのもいいな……こうして想像は膨らんでいく。

2023/01/27 BGM: Polaris - 季節

私は子どもの頃からポップ・ミュージックが好きでよく聴き込んできたのだけれど、高校生の頃その趣味をシェアできればと思って放送部に入ったことがある。だが、私の好みの音楽はぜんぜん理解されなかった。当時部員の間で流行っていたのはジョージ・マイケルフィル・コリンズといった音楽で、私はそういった洋楽を知らずに育ってきたので好みが合うはずはない。それで、私の好みは受け容れてもらえなかったので私は放送部を辞めた。それからずっと私はクラスの片隅で死んだふりをして過ごす生活を送ることになった。前にも書いたかもしれないが、友達なんていらないと自分を閉ざしてしまいただ吉本ばなな村上春樹島田雅彦などを読み耽って過ごしたのだった。ああ、途方もなくアホな高校生だった。

今日は遅番だったのだけれど、午前中いつものように読書をしようとしても手につかず結局永井均内田かずひろ『子どものための哲学対話』をパラパラ読み返して過ごした。この本の中では「自分のことなんてわかってくれる人がいなくたっていい」というようなことが書かれていて、大学生の頃に初めて読んだ時感銘を受けたことを思い出す。自分は他人から理解されなくてもいいんだ、友だちなんていらない、異端のまま生きていこう……当時の私はこの箇所をそう解釈して、独りで孤独に生きることを選んだのだった。だが、今にして思えばそれは間違っているというか悲しい生き方であると思う。今の私は「やはり人には理解者が必要だ」と思う。私自身発達障害者として生きてきて、その過程で真の「自立」とは何だろうと考えるようになったからそう思うようになったのかもしれない。

今は永井均の文章をこう解釈する。つまり人から理解されること、すなわち人と関わって生きていくことはやはり重要なことである、と。そこで永井と食い違う。だが、その過程で人に魂を売り渡すような、迎合して自分自身の大事なものを譲ってしまうような生き方をすることは間違っている……というか、私にそういう生き方はできない。最終的に自分自身は異端であること、変人であることを思い知らされることもあるかもしれない。だが、その自分固有のかけがえのなさは貴重なものである。そして、本当の友情とはそうして誰にも譲れない個性というか自立した人格を備えた人との間によって築かれるものである、と。私自身そこを履き違えてしまい、ずいぶん人をやみくもに敵に回しつらい目に遭ったことを思い出す。今は私は友だちに恵まれている。おかしなものだ。私は異端のまま変わらずに大きくなっただけなのに。

夜、一水会鈴木邦男氏の死を知る。私は高校生の頃に小林よしのりゴーマニズム宣言』にカブれたことがあって、その流れで鈴木邦男氏のことを知った。大学生の頃彼が『SPA!』に連載していたコラムを読み、そのバランス感覚と人柄に感銘を受け私自身が在学していた早稲田で見た風景をコラムとしてまとめて、鈴木氏のところに送りつけたことがある。今思い返せばそんな自分のイタい言動に改めて赤面してしまうが、鈴木氏からは懇切丁寧な返信をいただき再び感激したことを思い出す。私のそのコラムを鈴木氏が笑って読まれたならいいのだけれど、どうだったのだろう……私は一生どん臭い左翼として生きて死ぬのだろうが、鈴木氏のような果敢にして柔軟な姿勢を持ち続けたいと改めて思った。ここにその旨を記して氏の死を悼む。合掌。

2023/01/26 BGM: 小沢健二 - 天使たちのシーン

実は恥ずかしいのだけれど、未だに私の中で生きることと死ぬことの間にある垣根は低いように思う。どういうことかというと、理由なんてないのだけれど時折退屈したり疲れたりした時に「ああ、しんどいなあ」「死にたいなあ」と思ってしまうということだ。もちろんそんなことは長続きしないのだけれど(自分のしぶとさは48年間付き合ってきた自分がよく知っているのだった)、酒に溺れていた時はこの垣根はもっと低くて、「生まれてきた時代が悪かった」「このまま酒で死にたい」「生まれ変わったら来世はもっと幸せになりたい」とまで思い詰めて過ごしていたのだった。そんなことを思い出してしまって改めて赤面してしまう。

大雪の余波は続く。昨日は結局断酒会はリモートで行われて、参加したばかりの方も来られて楽しいひと時となった。断酒会ではいつも体験談として自分の近況を語り、酒に呑まれていた時のことを語る。この日記を書いている時も少なからず感じることだけれど、書くことや語ることで自分の中にある自覚していなかった事柄、意識していなかったことというのが見えるように思う。そうした、「見知らぬ自分」を知ることもまた治療につながっているのかもしれない。そのためには「見知らぬ自分」がどんな自分であっても受け容れられるようこちらの姿勢をオープンにして、待つだけの勇気と寛容さが必要となるのだろうと思う。焦らず、日々を「1日断酒」で過ごす。「今日」1日を断酒して過ごす。

昼休み、発達障害絡みのミーティングでつながらせてもらっている友だちが写真をシェアしてくれた。桜のつぼみの写真だ。私もよく行くイオンで撮ったものかなと思ったのだけれど、さすがに桜のつぼみまでは見ていなかったので唸らされた。こんな10年に1度来るかどうかという大寒波が来ても、桜はつぼみをつけて来るべき春を待ち続けているのだった。自然のそうしたサイクルの変わらなさ、ゆったりした動きを見ていると人間社会のせかせかした暮らしぶりというのは実に対照的だなあ、と思ってしまう。桜が咲いたらどうしようか、たまには本から離れて花見をしようかとも思う。桜の樹の下で、スマートフォンをマナーモードにしてぼんやり過ごす。とはいえ私はアホなので、そんな場所にもニーチェウィトゲンシュタインとか持って行きそうだけれど……。

昼休みに佐野元春「ロックンロール・ナイト」を聞いて過ごし、この曲に歌われているような青春に憧れたことを思い出した。大人になったらどんな人生が待っているのだろうと十代の頃に胸に期待を膨らませ、少なくともいじめや無理解に苦しんでた今のような地獄の境遇からは逃れられるはずだと希望を持ち……結局生きてみれば酒に呑まれてさらに地獄を見た20代と30代だった。その頃、40代になったら自分が酒を止めることができて日記を書いているということも毛ほどもイメージできなかった。この分だと50代になったら私はまったく想像もつかないことをやっているかもしれない。もしかしたら農業を始めてたりして……というか、私は40で死ぬのだと思って生きてきたことを思い出した。だから今こうして命があるということそれ自体がかけがえのないことだなあ、と思ってしまう。このまま100歳になってもなおアナーキーなクソジジイ(伊集院光)として生きるのも人生なのだろう。

2023/01/25 BGM: 核P-MODEL - Big Brother

起きるとそこは銀世界。朝、日課としてローソンに行きコーヒーを買いそれを飲んでこの日記を書く。Facebookで他の方の雪景色の写真を見させてもらう。私とリアルでつながらせていただいている知り合いの方のところもかなり雪に見舞われたようだ。休みだったのだけど、朝はこんな雪に勘を狂わされたからか読書も何もできなくてただDiscordでダラダラとチャットをして、それにも飽きるとまた二度寝をしたりして過ごす。ふと、活きた英語をこうしたチャットなどで学ぶことの是非について考えた。それは果たしていいことなのかどうか……具体的にはスラングである"asf"という言葉に出くわしたので、それで気になったのだった。

当たり前のことを書いているかもしれないが、英語は座学ではない。「書を捨てよ、町へ出よう」と言ったのは寺山修司だったが(恥ずかしながら彼の本は1冊も読んだことがないのだった)、実際に外に出て人と話さないと学べないのが英語だ。だが、外に出てそうして人と交わるということは嫌な思いもしなければならない。教室ではまず学ばないだろう「f**k」という言葉だって投げかけられるかもしれないし、ロコツにこちらのたどたどしい英語をバカにされるかもしれない。そんな不条理を「耐えろ」と言う事は簡単だし、現実的にはそんなタフネスが求められるのかもしれない。だが、そうしてタフになることで失われるものもありうるのだろうな、と思ったのだった。昨日の桃白白の比喩が教えるように。

昼、何も手につかずぼんやりする。このままムダに1日が終わるかもしれないけれどこんな大雪ではむべなるかな……そう思っていたのだけれどふと過去に買い求めたジョージ・オーウェル『一九八四年』をまだ読んでいなかったのを思い出し読んでみた。過去に話題になっていた時に買ったまま積読で今まで過ごしてきたのだけれど、今読むと実に鮮烈にこちらを揺さぶる作品であると唸る。もちろん「現在」を予見した作品として生々しいというのもあるが、それ以上に私自身がこれまで信じていた人生哲学を批判する作品としても受け取れるように感じられたのだ。それはつまりカフカの言葉を借りれば「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」という態度だ。

「なんのこっちゃ」と思われたかもしれない。つまり私はずっと「世界に不満を持つなら自分自身から変わっていけばいい」と思っていたのだった。逆に言えば自分自身が何もしないまま世界に文句をつけていても状況は変わらない、と。だから私は自分自身の生き方を変えるべく断酒し、日々をていねいに生きることに務める。だが『一九八四年』において、奇怪なる「2+2=5」に代表される無理難題に自分自身を適合させてしまった結果「ビッグ・ブラザー」に忠誠を誓うようになる人々のおぞましさに触れてそんな自分は間違っているのかもしれないと思ったのだった。ではどうすればいいか。私がこうして主人公ウィンストン・スミスのように日記を書くことで自分自身が本能で感じた事柄を日々残しているのは、そんな事態に抗って私がなしうる本当にささやかな抵抗なのかもしれない、そんなこと考えたこともなかったが。

2023/01/24 BGM: UNICORN - ヒゲとボイン

天気予報通り、夕方から大雪になる。みるみるうちに積もり始めたので、帰りは歩いて帰った。途中図書館に寄り小林秀雄『考えるヒントⅠ』を借りる。グループホームに戻るとこれといって何かやりたいとも思えず、だらだらとその『考えるヒントⅠ』などを読んで過ごす。英会話教室が今日から始まる予定だったのだけれど、それもこの雪のせいで中止になり来週から仕切り直しということになった。明日は幸いなことに休みだ。借りた小林秀雄や、あるいは何度も読んできたフェルナンド・ペソア『不安の書』などを読んで過ごしたいと思った。映画を観るのもいいだろう。昔なら雪が降ったら雪見と称して酒を呑んだものだが……。

英語には「こころ」を言い表す言葉として「mind」と「heart」がある。たまたま手元にあるので引用するのだが、マーク・ピーターセン『英語のこころ』では「mind」は「論理的な思考に基づくこころ」、「heart」は「感情や気持ち」に属すると説明してある。私は何を隠そう大学では英文学を学び30年ほど英語と取っ組み合いを繰り広げてきたが、未だにこの「mind」と「heart」の区別がつかない。今日も自閉症発達障害のテストで使われる「サリーとアン問題」のことや、私自身が言われてきた「あなたは人のこころがぜんぜんわかっていない」という言葉について考えていて、この問題にぶつかった。「人のこころ」。そんなものが他人にわかったりするのかな……と思い、ふとそれを英語にしたくなったのだった。

私も人の子。そう言われて「私のこころ」が傷つかないわけがない。「『私のこころ』が傷ついた」……これはどっちを使えばいいかわかる。「私の感情がいたく傷ついた」のだから「heart」だ。だが、ならば他人の場合はやはり「他人の感情を読み取れていない」という意味で「heart」なのだろうか、それとも他人の論理的な意見の骨子を汲み取れていないという意味で「mind」なのだろうか。ここで迷ったので、英会話教室の先生にLINEで質問をしてみた。先生は「heart」を使ったらいいとおっしゃったので、それで一旦は納得できたような気がした。ただ、どこかですっきりしない。それもまた私の発達障害が悪い意味で出ているということなのかもしれないなあ、と思ってしまう。

「サリーとアン問題」についてくわしく書く余裕はないのだけれど、私が言いたいことというのは発達障害の人というのは人が何を考えているか読めずにトンチンカンなことをしてしまう、ということだ。私もずいぶん「わからず屋」と言われたことがある。私の側から言えば、どうして人はこうも「気分屋」なのかと思ったものだ。ああ、過去に私は「こころ」(感情や理性)を捨てて機械のようになりたいとまで思い、そうなることが強さだと思ったのだった。でも、今はそれが強さだとは思わない。そうして「こころ」を捨ててしまった時点で失われるものがあるのだろうと思う。強さに目が眩んで自分の格闘家としての存在意義を捨ててしまった桃白白のように(マニアックな喩えですみません)。

2023/01/23 BGM: SHERBETS - シベリア

朝、微熱を感じた。測ってみると37.0。確かに私にとっては熱が出たと言っても差し支えない体温だ。幸いなことに今日は休みなので安静にすることにする。朝、とある方がモニタリングのためにグループホームに来られる。そこでいろいろ話す。その後、横になり眠る。起きている時は保坂和志『季節の記憶』を読んで過ごす……といったことを今こうして書いていて、自分自身の日記に対する向かい方も変わったなとふと思った。ウェブ日記なら昔も書いていたが、すぐに飽きて止めてしまっていたことを思い出したのだ。その時の私の動機というのは結局単に「日記が流行っていたから」という程度のものでしかなく、私が本気で日記を書きたかったわけではなかったからなのだろう。今は友だちに向けて、そしてもちろん私のためにも、こうした日記を書けている。

大学生の頃だったか、保坂和志の小説と出会った。『プレーンソング』だっただろうか。それ以来、彼の書くものは注目して読んでいる。大学生の頃の私は本当に、懐かしい言葉を使えばピーターパン・シンドロームというのか大人になるのが本当に怖かった。こんな変人を雇う会社があるのか、運良く就職できても会社でこき使われて過労死とか……結局私はその後地元に戻り今の会社で働くようになったのだが、そんな風に大人になるステップを歩む中で保坂の小説世界に現れる、どこか情けなくも凛々しい大人たちから励まされたことは忘れたくない。貧乏かもしれなくても自分に忠実に生きる……そして今がある。改めて感謝を感じる。

『季節の記憶』を読み終える。改めて深遠な作品だと唸った。哲学的な考察が書き込まれていることと、主人公が鎌倉の大自然を丹念に描写していることがうまく溶け合って、独自の世界を描き出していると思ったのだ。私自身が住んでいるところも大自然に囲まれたど田舎なのだけれど、たまにはそうした自然を楽しむべく散歩してじっくり「見る」ことに務めるのもいいのかもしれないと思った。私は結局一生涯ウィトゲンシュタインの考えた枠の中でちまちま考えて人生を終わらせるのだと思うのだけど、ウィトゲンシュタインも確か「見る」ことの大事さを説いていたのではなかったか。「見る」ことに務めるのは意外と難しい。既視のものと一蹴しないで、改めてじっくり「見る」ことが大事だ。

カクヨムで面白い日記を見つけた。小林秀雄を読んでおられる方の日記だ。私は小林秀雄を読んだことがないので、試しに1冊読んでみようかと思う。『考えるヒント』から行こうか。こうして思いもよらぬ本と出くわし、知らなかったことを知ることで私の世界は変わっていく。最近読んだ茂木健一郎『生命と偶有性』の言葉を使えば、私は「流れ」の中にある。大いなるものが織り成す「流れ」に、私は時にこうして身を預ける。その後どうなるかわからない。小林秀雄は私に合わないかもしれない。だが、私はともかく勘がささやく通りに生きる。今までもそうだった。早稲田だって今の会社だって、先のことを小賢しく考えても私のポンコツな脳ではオーバーヒートするのがオチだ。則天去私。

烏有文集(うゆうぶんしゅう)(そうげん) - カクヨム