跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/26

憂鬱な気分だった。職場が繁忙期に入るせいだろうか。私の職場は年末年始が最も忙しくなるので、プレッシャーを否応なしに感じてしまう。感情というのは厄介だ。かつて、私は感情なんて自分からなくなってしまえばいいと思っていた。感情があるから人前で取り乱したり、自分でもどうにもならない衝動に駆られて動いてしまったりする。なにも感じなくなってしまえばいい、と。今はそんなことは考えない。この感じやすい感情があるからこそ自分はこんなふうに色んなことを吟味したりできるのかな、と思うのだ。

いつも、私は好奇心の赴くままに生きてきたように思う。人一倍音楽を聞き本を読み映画を観る。これらは全てその好奇心からやってきたことだ。今の会社に勤め続けているのも好奇心故だ。逆に言えば、好奇心という言葉にならないものに突き動かされて自分というものは存在する。今日も仕事をした。なぜ仕事をするのか、なぜ生きるのか。人からバカにされても、将来が見えなくてもそれでもいい。今の私には仲間が居て、決して独りではない。親しい人の言葉は暖かい。私をずっと動かす。まだまだ働ける、と思った。

病的な考え方になるのだけれど、今こうして書いている時もふと「このまま、スコット・フィッツジェラルドみたいに自分が途上で倒れて死んでしまったら……」と思うことがある。かつてはそれでもいいと思っていた。生まれてきたことが間違いだったのだから野垂れ死にが自分には相応しい、と。でも、今はまだやることがある。あるいは、やりたいことがある。自分としては充分高みに達したと思っているのだけれど、まだまだこれからどんな光景が、どんな未来が見えるのか確認したいという気持ちがある。まだまだ死ねない。

死ねない……かつてGoogle+で仲間に「死にたいと思う」と語って相手を動揺させたことがある。浅はかだった。それ以来「死にたい」という言葉は冗談としてでも口にしないようにしている。時折、辛くてしょうがない時は死によって解放されたいと思うこともある。「死にたい」……だが、今は大事な人が居る。大事な人のために生きたいと思う。フィッシュマンズの歌詞を思い出す。「きみが誰かを支えてるぜ」。私が頑張っていることが、人を支えている。そう思うと自分のエゴで自分を殺すわけにはいかない、と思う。

2021/11/25

今日は休みだった。朝、グループホームの窓から美しい朝日が見えたので写真に収めてしまった。それを日本や海外の友だちに向けてシェアする。昔は友だちなんて居なかったし、居なくても生きていける(いや、孤独に耐えなければ生きていけない)と思って独りで本ばかり読んでいたのだが、自分も変わったものだ。朝にピチカート・ファイヴを聴きながらこの日記を書く習慣がすっかり身についたように思う。そして夜になると最近リリースされたアンディ・サマーズ(ポリスのギタリストだ)のソロ『Harmonics Of The Night』を聴く。最近はずっとこういう過ごし方をしている。

イオンの未来屋書店でユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』と與那覇潤『知性は死なない』を買う。『知性は死なない』を読んだのだけれど、著者が大学教員生活を過ごしている過程で見舞われた鬱病との闘病と、そんな著者が観察した平成の政治やその他の現象(アドラー心理学や『超訳 ニーチェの言葉』がベストセラーとなる現象)について分析した書物で、とても読み応えがある。私が最近になって考えるようになった言語と身体について、反知性主義やトランプ現象を身体性の側面から読み解いているのが面白かった。言葉でくどくど説明される難しい理屈ではなく、身体に訴えるようなプリミティブな快楽を人は求めている、と……。

夜になり、毎週木曜恒例のミーティングに参加する。今日は『やさしい日本語』をベースにした伝えやすく簡明な日本語を話すにはどうしたらいいか、という内容だった。私もついつい難解な、長ったらしい日本語を話してしまう(主語がないとか一文が長すぎるとか)。なので、「その文章を英語で表現してみたらどうなるか」をシミュレートしながら話す訓練となり、大いにタメになった。「やさしい日本語」は外国人向けに話されるものなのだが、私は発達障害者なのでその立場からわかりやすく曖昧さがないことが望ましいと話した。

その後アントニオ・ダマシオ『意識と自然』などを読もうとするも力尽きる。ので、先に書いたアンディ・サマーズのソロを聴きながらのんびりする。ダマシオの本を少しかじり、私たちが正義を信奉するのは、もちろん悪がもたらす損失を避けたいからというのもあるが、「正義は勝つ」的なストーリーが私たちに快楽をもたらすからではないか、とも考える。それが昂じると「正義中毒」みたいになるのではないか(だからこそ人はTwitterなどのSNSであれほど人を叩くのではないか)、と。感情を抑えることに務めている私には参考になりそうな視点だが、こういう本はどの分野に入るのだろう?

f:id:straycatboogie:20211126074922j:plain
The day MIshima had passed away.

2021/11/24

朝、ピチカート・ファイヴの曲を聴く。彼らはあっさりと死について歌う。「憂鬱な気分で死にたいけど」等など。中島義道『哲学の教科書』で「最大の哲学問題は死である」と説かれていたことを思い出す。死……考えてみれば今まで死ななかったことがこれからも死なないことを意味するわけではないなと思い、今日死ぬ可能性もゼロではないんだなと思うと朝から暗澹としてしまう。もっとも、可能性だけで言えば北朝鮮がミサイルを発射して世界が全面戦争に突入する可能性だって「絶対にないとは言えない」わけなのだけれど。

今日もマーク・ソームズ『意識はどこから生まれてくるのか』という本を読み、意識や心について考える。やれやれ、私はなにをやっているんだ。学者になりたいというわけでもないのに……こんなことを続けるのも自分のアイデアをシェアしたいという気持ちがあってのことだろう。またこの話かよ、と思われるかもしれないが昔は理解者が居ないで寂しい思いをしていたので、今こうやって考えをシェアすることにどこかで「飢えている」自分が居ることに気づくのだった。共感を得たいのか、同意されたいのか……構ってちゃん? まあ、そういうところもあるとは思うのだが。

かつて私は死をもっと軽く考えていたと思う。死こそが自分の人生の難問を解決する最終的な、そして最善の手だと思っていた。鶴見済が『完全自殺マニュアル』の中で自殺を選択肢の中に入れて生きることを薦めていたから、影響されたのかもしれない。自死を考えて生きることで救われる……そんな心の働き方もあるのかもしれない。今はしかし、私は自死を考えない。本当に大事な人がたくさん出来たので、その人たちに自分のブザマな姿を見せてがっかりさせたくないと思う自分が居る。まだまだ、やりたいことはある……。

職場に入ると職場の論理で動かなければならない。職場のボスや同僚が目指す目標を共有しなければならない。その一方で私は職場に就業支援員を導入したいという目標を実現させたいと思っているし、私生活では私生活でもっと楽しくラクちんに生きたいと思ってあれこれ考えている。そうやって色んな目標の中で生きていると、肝心要の目標や夢を見失ってしまいそうだ。知り合いは引きこもりの支援のための仕事を続け、目標を見失っていない。彼を見習わなければならない、と思う。どの人にも夢があり、未来がある。私も改めて未来を描き直す必要があるのかもしれない。

2021/11/23

今日、ぼんやり考えた。かつて成功を夢見ていた自分が居た。なんでもいいからビッグになりたい、と思って……でもそれはただ自分のエゴイスティックな目的のために成功したかったのかな、とも思った。幼稚な言い方になるのだけれど、自分が心地よくなるために成功したかった、と。もっと世界のこと、みんなのことを考えて、自分はなにができるか考えた方がよかったのかなとも思った。今のジョブコーチのことを考えているのは「今の会社で発達障害者が働きやすくなるために」ということなのだが、それでいいかな、とも考えてしまう。

私とはなんだろう、ということを相変わらず考えている。例えば私はこれまでに感じたことのない感情というものをこれから感じることはあるのだろうか、と。今まで私は46年生きてきたので、あらゆる感情を感じ尽くしてしまっていると言ってもいいのかなと思う。だが、例えば食べたことのないものを食べたらその味は当然味わったことのない味であるはずだが、私はその味を既存のカテゴリの中に入れてしまうのではないかな、と思ったのだ。「美味しい」「まずい」「塩辛い」「甘い」などの中に入れるのかな、と。

もちろんそれがいけないわけではない。そのように未知のものを既知の体験と照らし合わせるのが生きるということであり、なにかを判断するということだろう。感情に話を戻すと、私はこれからも感じたことのない感情を感じることはあるかもしれない。極端に言えば毎日、生きたことのない時間を生きているわけだからその都度新しい感覚を感じているのかもしれない。それを既知につなげて消化していく。それが人生なのかもしれない、と考えた。だから私は世界の深遠さに戦慄しなければならないのだ。私は未知の只中を生きる……。

最近はそんな風に脳と自分の意識のことを考えている。発達障害者として生まれたので、自分が感じているだけと思っていたことが他の人も感じていることでもありうると知ったのが嬉しい。過集中について、相貌失認について……でもこれを他の定型発達者に伝えるのがどうしたらいいのか難しい。江頭2:50が語ったという「生まれた時から目が見えない人に空の青さを伝えるにはどうしたらいいんだ?」という哲学的な問いを、私もまた感じている。この辛さ、この面白さを他の人にどう伝えたらいいんだろう。いつも悩んでしまう……。

2021/11/22

この日記を書き始めるまではなにを書いていいのかわからなくて困る。いつもポケットに入れているマルマンのメモパッドのメモを見て書いているのだけれど、今日考えたのは「どういう時に心が温まるか」ということだった。例えば「ありがとう」と言われたら心が温まるし、あるいはどこか素敵な場所に留まれたらそれで温まる(居心地のいい自分の家や、デパートなどの賑やかな場所……)。身体を動かしていたら心も温まる。この寒い季節、そうして心と身体が温まればそれだけで幸せだ。美味しいものを食べても心が温まる。

いつも同じことを書いているのだけれど、20代や30代に思い通りに人生が進んでいたらどうなっていたか考えてしまう。作家になれていたら、あるいは出版社に入れていたら……歴史に安易に「もしも」を持ち込むのは陳腐なのだけれど、もしそんな人生を過ごしていたら自分はダメになっていただろうな、と思う。40代になるまでずっと苦しい思いをしてきたのだけれど、それは自分にとって必要な回り道だったのだと思う。酒に溺れ、孤独に暮らしていた。その時間が自分を深めてくれた。もっとも、今も決してラクではないのだけれど。

私の中に矛盾する考えが同居しうるのはどうしてなのだろうとか、そんなことを考える。あるいは、私は「今までに感じたことのない」「全く新しい」感情を感じうるのだろうか、とか……今日はそんな哲学的なことを考えすぎて、仕事に入ってもうまく心を整えきれなかった。近々また契約面談があるのだけれど、私たちには私たちの理想があるし、会社は会社の論理がある。どっちを重んじていいのかわからないので苦しい、というのが正直なところなのだった。もうこの仕事辞めようかな、と考えることも実はあったりする。

ここまでくるともう理屈で説明できる問題ではない。私はいつも勘というかインスピレーションに頼ってこうした難問を解決している。給料面や待遇面でラクそうな仕事は探せばあるだろう。だが、今の仕事にこだわるのはインスピレーションが「この仕事を極めよう」と語りかけてくるからだ。正社員の人からは「フリーターだ」とバカにされてしまうけれど、私はこの仕事を「石の上にも三年」で続けていればきっといいことがある、と信じてやってきた。その予感を実現させたい、という意地でこれからもやっていこうと思う。

2021/11/21

今日は月に一度行われる発達障害関係のミーティングの日だった。10時から始まるというので、それまでに昼に食べるサンドイッチを買いにイオンに行く。その道すがら、ふと気がつくとブランキー・ジェット・シティという日本のロックバンドの曲を口ずさむ自分が居た。別にブランキーのことを考えるきっかけがあったわけではないのに……こうしてふと自分の中から思いも寄らないものが湧いてくる。それだけで既に自分にとって自分は謎だ。サンドイッチを買ったあと、図書館で渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』という本を借りた。

10時からミーティングが始まる。いつもこのミーティングでは元気をもらっているが、今日はコロナ禍が収まった様子なので一年ぶりに(もちろんコロナ対策の換気や消毒を万全に行った上で)リアルでミーティングを行った。私は以前ポッキーの日に行った発達障害をめぐる発表を紹介した。厳しい意見もあったものの、それもまた面白い。他の参加者の方からも、掃除や洗濯をどう指導すればいいのか(あるいは本人に任せるべきなのか)といった意見が出てきて、有意義な時間になったと思う。どの人も真剣に発達障害を考えている、ということがわかった。

その後グループホームに帰り、ゲオルク・ノルトフという人の『脳はいかに意識をつくるのか』という本を読み始めた。この本では人間の心(こうやって物事を考えている場所)はどこなのかという問題について平たく整理がなされている。どうやら人間の心は脳の中だけではなく、身体や外部に存在する世界と密接に繋がっているらしい。だから世界と自分との調和が崩れると統合失調症に陥ってしまう。あるいは精神状態が悪くなると身体にも影響が出る謎がこれで解ける。なかなかいい本を読ませてもらった、と思った。

その後、LINEのオープンチャットで心脳問題について(つまり心はどこにあるか、という問題について)教えてもらう。ただ、メカニズムがわかればわかるほど、それでもなお「なぜ自分は自分であり他人ではないのか」という謎は浮き彫りにされてしまう。今朝、なぜ私はブランキー・ジェット・シティの曲を口ずさんだのか。自分なんて単なる幻想でしかないかもしれないのに……やれやれ、十代の頃から考えているこの自分の謎、自分というブラックボックスの存在の神秘を解き明かすのは今になってもなお不可能なようだ。だからこそ考える価値があるのかもしれないけれど……。

2021/11/20

今日、仕事場で「ありがとう」と言われた。その時に心の中が暖かくなったのが面白かった。「ありがとう」という言葉自体は物体でもなんでもないので、触れて暖かくなるというものではない。だが、それは私に聴かれることによって温もりを持つものとして作用するようなのだ。俗に「繊細さん」と呼ばれる、心が人より感じやすくできている人が居るそうだが私もその素質はあるのかな、と思う。「ありがとう」の温もりは今日も私を動かした。今日も身体が温まる、パーフェクトではないにしろ最善を尽くす仕事をしたのかな、と思う。

未来とはなんだろう、と考える。言い古された言葉だが、私たちが未来に起こると信じていることは実は過去の延長であり、過去の事実から予測されることにすぎない。例えば天気予報は過去の天気のデータから未来に起こりうる天気を推測したものである(もちろん、だから「当たらない」と言いたいのではない)。ならば未来とはまだ到来していないものであり、あれこれ悩むだけ無駄なのだろうか。未来は実在しない? あるいは地球上で動物が絶滅してしまったら、未来を感じる存在は居なくなってしまうのだろうか……。

トレイ・エドワード・シュルツ監督『WAVES/ウェイブス』という映画を観た。運命の歯車が狂い、それまで順風満帆だった人生が悲惨なものになる、ということは(残酷な言い方をするが)誰にも訪れうるものだろう。その逆境をも、この映画のタイトル通り「波」として受け容れる度量は必要なのかなと思う。私自身のことを思い出した。就職で躓いてしまいストレス解消で呑み始めた酒に溺れ、毎日腸が煮えくり返る思いで呑んだくれて、いじめっ子の家に火を付ける妄想に溺れていた日々のことだ。ああ、なんと愚かな!

そうだ。書物と音楽だけが信じられる友だちだと思って、心を閉ざして、生きてきたことを恥じて生きていたのだった。元クラスメイトが「もし自分の子どもが自分が生まれてきたことを恥じているとしたら、こんなに悲しいことはない」と言っていたのを覚えている。その意味では私はずっと親不孝に生きていたということなのだろう。やっと今はそんな過去を間違っていたと反省し、ノーマルに前向きに生きられるスタートラインに立てたように思う。それもまた人生……確かに人生には大きな「波」があり、奇蹟が生じうると思った。その奇蹟もまた起こるべくして起こったものであり、自然界の視点から捉えればリンゴが木から落ちるのと同じくらい当たり前なのかもしれないが。