跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/23 English

Recently I've been listening to Kenji Ozawa's albums again. Especially I've been into the albums "The Dogs Bark, But The Caravan Moves On" and "LIFE". I guess these two albums are asking me a question. It's that "Can you praise an ordinary life?". Yes, just an ordinary life. But my deep memories and emotion are in it... it reminds me of Kazushi Hosaka's novels. TBH once I had thought that that kind of ordinary life must be boring. It must be boring and tasteless... now I have another opinion. Our ordinary life has its shining within it.

I listen to Kenji Ozawa's "Lovely" and Scha Dara Parr's "Summer Jam '95". They know well I believe. It means that sometimes our days bite us. But they choose to celebrate our daily life and enjoy various things within it. I might have to Kazushi Hosaka's novels such as "Plainsong" and "Breakfast on the grass". Or I might have to read the novel "A Simple Life" by Akira Abe completely... Indeed, our life has no meaning and we will die one day. But I believe that the fact I am here and I have done something remains. Like that I am living with the things the people I won't meet again passed me.

In the afternoon I joined Mihoge's room on Clubhouse and talked about the topic "challenging". TBH I had no profound ideas but I just wanted to talk about the things yesterday I had talked about with Janne. It was how we should go out of our comfort zone. But we went to more sensitive topics. We talked about the fact that people with serious handicaps tend to be called 'challenged', in short, their difficulties in their life are called 'challenges'. I said that people with handicaps (I'm also one of them) need not a life against any challenges, but a life without any challenges.

In the night I read Hitoshi Nagai's "This is Nietzsche". This book has some dangerous content. My life must be mine and not anyone else's. Therefore the events in my life must be the ones only I have faced and experienced (even if the same events happened in other people's lives, they would accept them in a different way). Then, can I accept all of those things as wonderful things with the idea of eternal recurrence? I was reminded of Wittgenstein's life with this idea. Wittgenstein had tried to accept all of the events in his life and recognize them. He had even made his philosophy by them. How can I make my philosophy by the things which would happen in the future?

2022/06/23

ここ最近、小沢健二のアルバムを聴き返している。『犬は吠えるがキャラバンは進む』と『LIFE』の2枚を特によく聴いている。これらのアルバムは、私にとある課題を投げかけているように思う。「普通の暮らし」を祝福できるかどうか? というものだ。何てことはない「普通の暮らし」、だがその中には濃密なこの私の記憶や感情が詰まっている……何だか保坂和志の小説のようだけれど、かつては私はそうした「普通の暮らし」を退屈だと思っていた。そうだ、日常は退屈で日々の暮らしは地獄のような、砂を噛むようなものだと。今はそんなことは思わない。日常は輝かしいものだと思う。

小沢健二「ラブリー」を聴き、スチャダラパーサマージャム'95」を聴く。彼らは熟知しているな、と思う。時に日常はこちらに牙を剥く。だけれどもそんな日常を祝福し様々な事柄を楽しむことの重要さを彼らの作品は教えてくれる。また保坂和志の『プレーンソング』『草の上の朝食』の読書に戻るべきかと考えた。あるいは今読みかけている阿部昭『単純な生活』を読むべきかと……しょせん、生きることは無意味で人はいずれ死ぬ。だけれども私がここにいたこと、こうして生きていたことはどこかで残るのだと思う。私自身がいろいろな人々、もう出会わなくなってしまった人々から託されたものを背負って生きているように。

午後、みほげさんというclubhouseで知り合った方のルームに入りそこで「チャレンジ」というトピックについて話させてもらう。私はそんなに深いことは考えておらず、昨日ヤネさんと話したコンフォートゾーンからどう出るかという事柄について話したかったのだけれど、次第に繊細な話に至る。障害者の方が「challenged」と呼ばれていることについて、つまり彼らの苦難が「チャレンジ」と受け取られていることについて話は及び、私は「困難を乗り越える」ことではなく「困難を乗り越えない」ことこそが障害者が求めることではないか、と考えた。そんなことを話す。

夜、永井均『これがニーチェだ』を読む。この本は危険な内容を備えている。良かれ悪しかれ私の人生は私だけが歩むものだ。そして、その人生に起こることはすべて私だけが体感するものだ(仮に同じ出来事が他人の人生に起こっても、その受け取り方は違ってくるだろう)。なら、永遠回帰のアイデアに倣ってその出来事をすべて素晴らしいこととして受容できるかどうか。私はこのアイデアからウィトゲンシュタインの人生を思い浮かべた。ウィトゲンシュタインもまた自分の人生に起こるあらゆる事柄を認識することに務め、自身の哲学の糧とした。私は自分の人生の出来事をどう自分の糧にできるだろう。

Life is a showtime.

LIFE

LIFE

  • アーティスト:小沢健二
  • ユニバーサル ミュージック (e)
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ここ最近ぼくは、小沢健二のアルバムを聴き返している。とはいうもののぼくもすでに今年で47になるので、感受性が硬直したせいか若い頃に聴いた『犬は吠えるがキャラバンは進む』や『LIFE』が中心になってしまう。おかしなもので、『犬は吠えるがキャラバンは進む』はリリースされた当時から好きだったのだけれど『LIFE』の方はリアルタイムで聴いてもそんなにピンとこなかった。だからそんなに聴き返さずに過ごしてしまった。今、『LIFE』のどこかやけっぱちですらあるような楽天的な空気をぼくは支持したいと思う。もちろん、人生はそんなに素晴らしいことばかりではない。それはわかっているのだけれど、つまらない日常をそのままトレースした表現にぼくは興味を持てなくなってしまった。確かに偽善的に響くのはわかっているけど、こんな「ままならない」人生だからこそ輝きを表現するというスタンスがあってもいいと思うのだ。ぼくにとっては小津安二郎アッバス・キアロスタミといった表現者の作ったものがそういう試みとして思い浮かぶ。そして、もちろん小沢健二のアルバムも。

fujipon.hatenablog.com

さて、ぼくは今日面白いエントリを読んだ。西原理恵子のことはわからないけれど(実は読んだことがないのだった)、「他人の日常日記」に興味を持つということがぼくにはわかるように思うのだ。いや、「日常日記の旨味がわかってきた」と言った方が正確かもしれない。昔は他人の日常になんて興味を持てなかった。いや、スキャンダラスな日記は面白いというのはわかる。これは賛否が割れるだろうが、永井荷風ゴンクール田中康夫塩山芳明はそういった「スキャンダラス」な書き手だろう。でも、ウェブで表現されている日記は必ずしもそんな日記ばかりではない。もちろんぼくの日記も含めて、ごく平凡なものばかりだ。今日、朝ごはんを食べて会社や学校に行って、こんなことをしてこんな本を読んでこんな音楽を聴いて……何だかテンプレを作れそうな、パターンにハマった日記ばかりだ(繰り返すが、この「パターンにハマった日記」の括りにはぼくの日記も含まれる。確実に)。でも、最近そういった日記の尊さがわかるようになったのである。

それはどうしてだろう。可能性としては、ぼくが歳を重ねたからというのが思い浮かぶ。考えてみればぼくの好みはここ最近ますます渋くなっている。地味になっている、と言ってもいい。昔はこう見えても村上春樹スティーブ・エリクソン村上龍スティーブン・キングを読みそのぶっ飛んだ想像力を楽しんでいた。彼らの世界を広く括れば「非日常」「異世界」「異常事態」を描いた作家たちということになるだろう(ハルキの場合は多分「非日常」が「日常」になる過程を描きたいのかな、と思うけれど)。つまり、ぼくはどこにでもいる「日常が退屈だ」と思っていた若造にすぎなかったわけだ。これにもう少し付記すると、ぼくの青春はオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件とバッティングする。彼らの事件が、そのまま日常を超越した次元を追究することのヤバさを暴いた、とぼくは受け取っている。宮台真司というぼくが多大な影響を受けた論者は、そんな非日常を追究することを諌めて「終わりなき日常を生きろ」と言い放った。これはぼくにとってもある種の格律として存在している。

でも、そんなふうに「終わりなき日常を生き」なければとキバって生きなければならないほど「日常」は酷いものなのだろうか、とここ最近は思い始めている。ぼくの来歴を語れば長くなるけれど、ぼくは大学は早稲田というところを出た。そんな大学まで行けばきっとバラ色の人生が待っているだろう……と心のどこかで思っていた(人生をナメていた、と言ってもいい)。でも現実はぼくは自閉症発達障害を抱えていることが明らかになり、それなりに生きづらい思いをして生きている。もっと言うとそんな生きづらさを何とかしたいと思ってひたすら20代・30代は酒に溺れた。500mlの缶ビールが1日に3本4本空いてしまう日々を過ごしたわけだ。酒に溺れながら、「日常は退屈だ」「『終わりなき日常』なんてまっぴらごめんだ」と思っていた。酒で死ねたらこんないい死に方はない、とさえ本気で思っていた。40で死のう、それまで太く短く生きようと思って、それでも40を越して47が見えてくるところまで生きたわけだ。書けば書くほど恥ずかしくなるけれど、これがぼくの人生だ。

それから今に至るまで、ぼくはシラフで過ごす努力を始めた。断酒会というところに通い、発達障害を受け容れるべく友だちとミーティングを重ね、国際交流協会の主催する英会話教室に通うようになった。そうして、普通の人の普通の体験談を聞きぼく自身がぼくの人生を語る試みを始めた。そうすると、他人の話は「どこかで聞いたような話」とナメてはいけない内実を備えていることがわかってきた。確かにありふれた話かもしれないけれど、そこにその人の感情が備わって唯一無二の体験として語られればそこにある種の旨味が生まれる。それはきっと、ぼく自身が自分の日々を書いている時にも起こっていることだろうと思う。ぼくの書けることなんて大したことじゃない。ロスジェネという世代に生まれた人間ならではの「この年になっても小沢健二の『LIFE』やスチャダラパー『5TH WHEEL TO THE COACH』を聴いている」というような繰り言ばかりだ。でも、その旨味はそんな風に頭でっかちに「退屈」と切り捨てては済ませられないものであるように思われ始めたんだ。

そして今、ぼくはもっと色んな本を読むようになった。日記ということで言えば阿久津隆『読書の日記』を好んで読むようになった(1000ページもある本なのだけれど、ぜんぜん飽きない)。あとはコラムなので日記とは違うけれど、でも書き手のその時その時の真摯な生き方が見えてくる十河進『映画がなければ生きていけない』シリーズ全6巻を2周した。桜庭一樹の『桜庭一樹読書日記』や『東京ディストピア日記』を楽しんで読むようになり、後は『中原昌也作業日誌』を読んだり青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読んでみたりしている。他人の日記を読めるようになったことで他の人の読書傾向から学んで読書の幅を広げられるようになり、「(かけがえのない)他人の人生」に少し想像力を働かせられるようになった。おこがましいけれど、これをぼくは「(年老いたから)保守化した」と捉えたくない。むしろ「円熟した大人になった」ということだと受け取りたいのだ。もちろん批判はあるだろうけれど。

ぼくはそうして、大人になった……シラフで過ごすと、グループホームで出されるご飯がおいしい。もちろん満漢全席なんてものとは違う普通の家庭料理だが、そこには世話人/スタッフのささやかな創意工夫がありそこからもたらされる旨味がある。他人の個人的な日記というのもそうした家庭料理と同じではないだろうか。デーハーなものではないかもしれないが、日々の体調や精神状態が出来ばえに反映され旨味となる。そして、もちろん時には新しい味付けをしようとして失敗することだってあるかもしれない。逆に成功することだってあるだろう。どちらにしても、作ったことがその日得られた経験となり、その人を育てる。その成長/円熟が日記に反映されて、さらにその人の価値観や世界観が広がる。ぼくはそんな世界観の広がりや深まりを支持したい。それはスペシャルなものではないかもしれない。でも、この世の中にそんな非凡な平凡を描いた表現(堀江敏幸保坂和志の小説のような)がなくなったら、きっとものすごく味気ない世界になってしまうだろうなと思うのだ。

ふてくされてばかりの10代をすぎ分別もついて齢をとり
夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けてく
――小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」

2022/06/22 English

This morning I joined the room that a friend Cindy had opened on Clubhouse. I learned "how to speak English with confidence" with other members. We learned how to manage our voices' tone and volume, and after that, we talked about how to make the attitude as having certain confidence. I talked about 'Degawa English' there. The English Tetsuro Degawa speaks (you can find many interesting videos about Tetsuro Degawa on YouTube) is exactly poor but he tries to communicate with other people with honesty and passion. That positive attitude that does trials and errors shows his confidence and great spirit. I have to follow his honesty and passion (of course, I'm honest). Dear reader, you might have to see how his English works as a positive creation.


www.youtube.com

This afternoon I opened my room on that Clubhouse. This time I could speak about my story because Janne, who always joins my room, embraced me as usual. I met various members of the Shiso International Association, and I started attending the English conversation class they hold. I also learned how to cook miso soup and other lifehacks at the meetings about autism. The story developed from that, and we shared a lot of funny jokes and riddles. And also we shared what illness each member has and how we accept that and try to live with a positive spirit. We confessed to others (I told them about my autism and alcoholic addiction). It became quite a rare meeting.

I graduated from the English literature department of Waseda. But it didn't work as bringing me any confidence. I think it is not strange. In my opinion, what have I achieved 'outside' of myself doesn't work as a source of confidence (not always, but it can happen). We have to accept the 'core' characters of ourselves and then it might bring us confidence. Me, I have learned to look at and love myself who likes philosophy, literature, and learning English without concerning Waseda. It has brought me the ability to accept and love myself. It made me start my life... and, it is quite strange but many people have come to me. This room also became a rare chance of meeting interesting people. I believe that this chance was brought by my confidence.

At night, I attended the 'danshu' meeting. After that, I read Daizaburo Hashidume's "The First Language Game". The author tries to make Wittgenstein's life and philosophy very easy and clear. His hot style attracts me. We 'spin' our thoughts by languages. It means that we can't be apart from the system of languages. We have to accept that we are limited by various points of view that languages bring us. It also shows that 'Language Game' is the core concept that tells the current situation, which means every member has been in their closed rooms, and we can't run away from our ones. I have to learn from this book to notice my limit of recognization, or the fact I have been in my closed point of view.

2022/06/22

朝、clubhouseでシンディさんが開いたルームに入る。そこで「自信を持って英語で話すにはどうしたらいいか」を学ぶ。声のトーンや大きさについて学び、そこから話は心構えについてにまで至る。私は出川イングリッシュについて話した。出川哲朗の英語は確かに稚拙ではあるが、彼は確かな熱意とフレンドシップを以て相手に自分の思っていることを伝えようとする。その前向きに試行錯誤を繰り返す姿勢は充分彼の自信を伺わせるものであり、相手もその熱意を汲み取ろうと思わせるのではないか。私は出川哲朗のそんな熱意/情熱を皮肉抜きで見習わなければならない。これを読む方も、一度は彼の英語に触れて損はないと思う。

午後に私はそのclubhouseで自分のルームを開いた。今回も、ヤネさんが参加して下さったおかげで自分のことを話すことができた。宍粟市国際交流協会の方々と出会い、そこから英会話教室に通い始めるようになったこと。発達障害を考えるミーティングで料理やその他のライフハックを学んだこと。そこから話は派生して、参加された方の面白いジョークや謎かけが披露されたりそれぞれが抱えている疾患(私の場合なら自閉症アルコール依存症だ)をどう克服せんと前向きに生きているか、そんなことにまで話が及んだ。実にありがたい内容になったと思う。

私は早稲田の英文科を出たが、それは私にとって自信をもたらすものとしては働かなかった。今考えれば至極当然のことだったと思う。自分の「外」に何を達成したかということは、必ずしも自信にはつながらない。それよりむしろ、自分自身のコアを受け容れて愛することができれば自信につながるのではないか。私の場合、早稲田に囚われず哲学と文学を好む自分自身を見据えて愛することを多くの人々との交流で学んだ。そこから自分を愛し、人生を始めることができるようになったのだと思う。そうすると不思議といろいろな人が集まってくる。今日のルームも、そうした自信がもたらした奇跡的なチャンスとなったと思った。

夜、断酒会に行く。その後橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』を読む。ウィトゲンシュタインの人生と哲学をこの上なく平たく整理した本で、そのホットな筆致に惹かれる。私たちは自分の思考を言葉によって紡ぐ。ということは言葉というシステマティックなものから逃れられないということになる。ある価値観に囚われ、そこから抜け出せないという事実。それはそのまま、個々人が自分だけの「言語ゲーム」の中に囚われてそうした限界を超越する視点を持ちえない、そんな「現在」を的確に射抜いた概念であると思った。ゆえに私もこの本から、「自分の思考の限界」を見極める姿勢を学ばなければならない、と。

※こんな記事を見つけた。なかなか面白い。「なぜインターネット上では常に誤解が生まれるのか?言語の限界について - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20150902-problems-of-translating-language/gigazine.net

2022/06/21 English

I started having an interest in Haruki Murakami again. I want to read his debut novel "Hear The Wind Sings". It's just a novel about ordinary life. The characters spend their time listening to The Beach Boys with minor activities such as girl-hunting, chatting with beers, and listening to the radio. Yes, those are all... But he wrote about those minor activities in a novel and rewrote the tradition of Japanese literature and our point of view (this is my understanding. Maybe I might misunderstand). By reading this novel, I want to have the decision of affirming this 'ordinary life' again.

When I started having my opinions about the world on a young day, we were asking about how to live that kind of 'ordinary life' again. A Japanese cult Aum did the subway sarin gas attack and it brought us the chance of asking how our souls should be saved and also how our lives have their meaning. I was also having difficulty living my life, therefore, having a question about "how to live any meaningful life? What should be the meaning of life?" passionately. "The Complete Suicide Manual" became a bestseller and Shinji Miyadai said that "Live this endless life"... I remember. This boring life never ends. So we have to adapt ourselves to life...until we will die one day.

But this point of view has the pessimism which means 'living this life' must be terrible as its base. Once I had that kind of the pessimistic point of view. Life must be hard, and even if enduring this life I can't leave anything meaningful. In short, life must be just nonsense... I don't want to tell a lie even if it could sound beautiful. 'My' life could be nothing special. Just a kind of 'killing time' as Shichiro Fukawaza says...

But even if it could be true, I don't want to be cynical to live this life as saying "Life is s**t". Maybe it has nonsense, but I exactly feel satisfied with the meals the staff of my group home cook. Those delicious meals make me think about various things. In "Tractatus Logico-philosophicus", Wittgenstein writes "The world is independent of my will". In other words, there are the facts in the world I can't control or understand. Like the goodness of the meals by the staff of my group home. This simple fact. This clear fact must be a miracle... Wittgenstein says so (At least, I believe so). And I want to follow this 'too simple' point of view of happiness of Wittgenstein.

Anything is nonsense?
It's just a joke I said too much.
The moment like God stands by us lasts.
(Kenji Ozawa "Roller Skates Park")

2022/06/21

また村上春樹に関心が戻りつつある。彼のデビュー作『風の歌を聴け』を読みたい、と思っているのだった。実に他愛のない、ビーチ・ボーイズを聴きながら女の子をナンパしたり友だちとビールを飲みながらおしゃべりしたりラジオで音楽を聴いたり、そうして無為に時間を過ごすというそれだけの小説……だがそんな「他愛のない日常」を小説として書くという試みこそが、深刻な事柄を小説として扱うこれまでの文学の伝統をぶち破り世界を塗り替えてしまった(と受け取っている。もしかしたら勘違いかもしれない)。そんな作品を読み、私自身もまた「他愛のない日常」を肯定する決意を固め直したいと思う。

私が物心ついた頃というのは、「日常」の価値が問い直された時期だったのではないかと思う。オウム真理教地下鉄サリン事件を起こしたことで、この世界における魂の救済や生きる意味が問い直された。私もまた、生きづらさを感じて過ごしていたせいで「生きる意味は何だろう」と(実に愚直に)問いながら日々を生きていたことを思い出す。『完全自殺マニュアル』がベストセラーとなり、宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」と語ったことを思い出した。この退屈な日常は永遠に終わらない。だから、その日常に順応して生きろ、と……そして死ぬまで生きろ、と。

だが、その価値観の根底にあるのは「終わりなき日常を生き」るということが辛いことだというペシミズムではないだろうか。かつて私もまた、そんなペシミスティックな価値観を抱えて生きていたことを思い出す。生きることはどうしたって辛いことだし、そんな辛い人生を耐え抜いて生きたとしても後に残せるものなんて何もないし、人生は結局のところ何の意味もない……そんな価値観。いや、私もきれいごとは言いたくない。私の人生だって結局だいそれたものではなく、ただ「ひまつぶし」(深沢七郎)なのかもしれない。

しかし、私はそれでも「しょせんすべてに意味なんてない」と冷笑的になる生き方はしたくないと思うのだった。意味なんてないかもしれないが、それでもグループホームの食事をいただいている時にその美味に充実感を覚える。その美味しさがいろんなことを考えさせる。『論理哲学論考』において「世界は私の意志から独立である」とウィトゲンシュタインは語っている。つまり、私がコントロールできない事柄(グループホーム世話人さんの料理の美味しさなど)が確かに存在するという、この端的な事実。この「当たり前」こそが崇高な神秘なのだとウィトゲンシュタインは語った(と私は信じる)。そして私もまた、彼のそんな素朴すぎる価値観を見習いたいと思う。

意味なんてもう何もないなんて
僕が飛ばしすぎたジョークさ
神様がそばにいるような時間 続く
小沢健二「ローラースケート・パーク」)